第百八十一話 永遠の想い
闇に包まれた世界が、光を取り戻した。
突然のことで、目が眩んだ。
自分がどこにいるのか、まるで分からない。
身体に、痛みが無いことに気付いた。
重石で縛られたような息苦しさもない。
身体中を刺し貫かれた痛みも、解放された“観測者の力”を使った反動も、綺麗に消えている。
また、転生したのか。
自分の身体を眺め回す。
元の姿のままだった。
なら、私は助かったのか。
だとしても、なぜ立った状態で目覚めたのだ。
意識はまだ、朦朧としている。
それでも眩い光に慣れてきて、周囲の風景が、少しずつ鮮明になった。
空が澄んでいる。
青々とした若草と、様々な彩りの花々が、どこまでも生い茂っている。
地平線の彼方まで、果てしなくそれは続いていた。
足を、踏み出そうとした。
鮮やかな草花を踏むことに気が咎めたが、私が歩き出した瞬間、行く手の草花は左右に開かれ、小さな道が出来た。
私は心の内で胸を撫で下ろし、歩み始めた。
「……ナビ」
声を上げた。
返事はない。
あいつなら、ここが何処なのか教えてくれるはずなのに。
何度か呼んだが、ただ私の声が空に溶け込み、花に吸われるだけだった。
少し寂しかった。
ただ、不安はない。
必ず、ナビとはまた会える。
私にはそれがわかる。
――随分と歩いた気がする。
疲れはない。
寧ろ歩けば歩くほどに、心地よい活力が全身を満たしていく。
澄んだ空の空気と、花々の香り、そしてこの美しい風景のお陰だろうか。
ふと、遠くに、人の姿が見えた。
「ナビ……?」
少し歩を速めて歩いた。
だが途中で、慌てて足を止めた。
突然、道が途切れていた。
大きな裂け目が走り、地を割っていた。
裂け目は左右のどこまでも続いていて、果てが無い。
覗き込むと、底が全く見えないほどに深い。
闇が、口を開けているようだった。
この美しい景色に、異様なほど不釣り合いだ。
気付かずに落ちなくて良かった。
この場所は殆ど平坦で、向こう岸も地続きのように、同じ風景が広がっている。
だから、近づくまで分からなかった。
対岸の人影もそっと近づいてきて、ようやく姿がはっきりと見えた。
ナビだと思っていた人影は、全くの別人だった。
「……ああ」
そしてようやく、私はこの場所が何処なのか分かった。
「迎えに来てくれたんだな、タケル」
向こう側には私の友だちが、タケルが立っていた。
卑弥弓呼の姿ではない。
倭国に戻ったばかりの頃の、日御子に初めて会った頃の、若い姿のタケルだった。
そして“俺”の姿も、いつの間にかその頃に戻っていた。
「そっか、やっぱ死んだのか俺」
それはそうだろう。
あれだけの傷を負って、過ぎた力を無理矢理行使して、無事な理由がない。
なぜ何も疑問に思わなかったのか、不思議なくらいだった。
笑いかける俺を、タケルも微笑で見つめ返している。
「日御子はいないのか」
問いかけながら、辺りを見回す。
タケル以外の姿は見当たらなかった。
「何だよ、お前一人か」
また顔が見たかったのに。
少し残念だ。
それが、表情に出てしまったのだろうか。
向こう側にいるタケルの微笑が、少し寂しそうになった。
「嘘々、冗談だって。そんな顔するなよ」
俺は慌てて手を振った。
「台与の為とは言え、最後に滅茶苦茶やっちまったからな。愛想尽かされて当然だよな」
俺は右手で頭を掻く。
「お前が来てくれただけでも嬉しいよ。そもそも、日御子と俺たちじゃ行き先が違うよな」
何が可笑しいのか分からないが、俺はそう言って笑った。
「よし、待ってろよ。今そっち行くからな」
裂け目はかなりの距離だが、走って跳べば、何とか向こうに届きそうだ。
俺は後ろへ下がって、距離を取った。
思い切り地を蹴ろうとした時、突然裂け目が広がった。
タケルの姿も、その分遠ざかる。
「何だよこれ」
慌てて、割れた地面の間際まで駆け寄った。
もうどうやっても、ここからあちらへは行けない。
「タケル、待ってろよ。穴に沿って走れば、どこかで途切れてるはずだ。回り込んでそっちまで行くから」
思い切り叫んだ。
そうしないと、もうタケルに会えなくなるような気がして。
だけどタケルは首を振って、俺の方を向いたまま、少しずつ後ろに下がり始めた。
「ちょ、ちょっと待てって。俺も行くから。置いてくなよ」
また、タケルが首を振った。
そして今度は腕を上げて、俺に向かって指を差した。
「は、何だよ。俺がどうしたんだよ」
軽く、指を前後させた。
「……後ろ?」
ゆっくりと振り向いた。
いつの間にか俺のいる側だけ、草花が消えていた。
剥き出しの土が一面を覆う、荒野へと変わっていた。
空は漆黒に染まっている。
亀裂の上で割られたように、澄んだ青と黒い闇が、一直線に接している。
俺はあまりの光景に、またも言葉を失った。
再び地に視線を落とした。
荒野と黒の先に、黄金色の光が浮かんでいる。
光の中にナビの姿があった。
花緑青の艷やかな長い髪と、薄緑の涼やかな衣が、花の代わりに美しく佇んでいる。
そして、身体の前で組んだ手が、一際強い光を放っていた。
静かに、でも強く、俺を見つめている。
俺を、待っている。
「……でも、ごめん、ナビ」
俺はもう一度、タケルを振り返った。
「タケル。俺もそっちへ行く。俺も連れてってくれ」
叫んだ。
距離がまた広がっている。
けど、声はまだ届くはずだ。
お互いの顔も、まだ見えている。
「俺はもういいんだ。“全ての歴史を見届けたい”なんて、最初は思ってた。でも今は違うんだ。お前たちに出会って、お前たちと生きた。その時間を観測出来ただけで、俺はもう満足なんだ。これ以上は要らない。俺もここで終わりたいんだ。お前たちと一緒に。日御子とタケルがいない時代を見届けたって、何の意味も無いんだよ」
タケル。分かってくれ。
一人にしないでくれ。
もう、限界なんだ。
お前たちのいない世界で、俺は十分頑張っただろう。
もう疲れたんだ。
寂しくて仕方がないんだ。
それでも悲しそうに、タケルは首を振るだけだった。
「タケル」
叫んだ。
遠くへ、遠くへ行ってしまう。
俺のたった一人の友達が。
駆け出した。
飛ぶ。
それでこの闇に堕ちても構わない。
また一人になるくらいなら。
「持衰」
タケルの声。
厳しく、怒ったような声。
思わず、俺は足を止めた。
「甘ったれんな、バーカ」
「バ……、は?」
何を言われたのか、一瞬理解できなかった。
「お前がこの先も見届けなきゃ、日御子と俺の、みんなの想いはどうなるんだよ。誰が繋げていくんだよ」
「タケル、何言って……」
「お前が繋げていかなきゃ、俺たちの時代は、俺たちがいたって事実が、無くなっちまうんだぞ」
観測者による、歴史の修復の事を言っているのか。
なんで、タケルがそんな事を知っているんだ。
「俺が消えても、すぐに歴史は無くならない。他の観測者が、代わりに見届けてくれるはずだ」
「お前が観なきゃ意味ないだろ」
俺じゃなければ。
なんで、なんでだよ。
なんで、そんな事を言うんだよ。
「“日御子”と“タケル”を知ってるのは、お前だけだ。お前と生きた俺たちは、お前じゃなきゃ残せないんだよ」
“日御子”と“タケル”。
“卑弥呼”でも、“卑弥弓呼”でもない。
史書に記された、情報だけの存在じゃない。
確かにそこにいた、血肉の通った人間。
笑って、泣いて、怒って、愛して。
どの時代にだって当たり前に存在した、本当の人間。
「お前がいなくても、世界は守られるかもしれない。けどお前がいなきゃ、誰が俺たちをこの先の時代に、お前のいた時代に、連れてってくれるんだよ」
そうだ。
俺はこいつを知っている。
彼らを知っている。
他の観測者に託した歴史の中では、もう彼らは、彼らで無くなってしまうんだ。
「ふざけんなよ、タケル……」
力を込めて、拳を握りしめた。
悔しかった。
こいつにそう言われたら、もうそうするしかないじゃないか。
「なんでお前、最後の最後に、そんな頭良いこと言えるんだよ」
「おいおい持衰。そんな言い方すると、まるで俺のことバカって言ってるみたいだぞ」
思わず、俺は吹き出した。
「だからそう言ったんだよ、バーカ」
「はあ? 何だとこの野郎」
「さっき俺のことバカって言ったお返しだ」
とうとう堪らず、俺は声を上げて笑った。
タケルもつられて、大口を開けて笑う。
友との別れの悲しみを、無理矢理にでも、遠くへ追いやるために。
「わかったよ、タケル。しょうがないから、ちゃんと最後まで見届けてやるよ。お前らが作った時代の、その続きをな」
ひとしきり笑い、少し落ち着いたところで、俺は涙を拭いながら、口を開いた。
「けど狡いよな。お前は俺を置いてって、楽になっちまうんだから。俺はこの先、ずっと一人ぼっちだってのに」
「違うだろ、持衰。俺も日御子も、ずっとお前と一緒だ。人は繋がっていく。例え血の繋がりが無くたって、人の想いは繋がっていく。なんつうのかな、誰かが生きてるってことは、それだけで、居なくなった人たちが、そこにいるってことになるんだよ。だからお前が居てくれれば、この先に生きるお前たちの中に、俺たちは永遠に生き続けるんだ」
「お前そのセリフ、かなりベタだぞ」
俺は茶化すように笑った。
涙が流れ出ていて、上手くいかなかったけど。
「いいんだよ。この時代では最先端だ」
そう言ってタケルは、俺の知ってる無邪気な笑顔を浮かべた。
「それにさ、これから色んな奴に出会える。そして、絶対にお前の傍に居続けてくれる人が、お前にはいるだろ」
そしてタケルは、また俺の後ろに向かって、指を指し示した。
「ああ、そうだな」
俺も、タケルに微笑み返した。
そしてゆっくりと、友に背を向けた。
ちょっと頼りないけど、かけがえのない相棒の姿がそこにあった。
「じゃあな、持衰」
「ああ。またな、タケル」
背中越しに、別れを告げた。
走り出す。
地の裂け目から亀裂が走る。
後方から次々と、足場が崩れ落ちていく。
走った。
真っ直ぐ。
ナビの元へと。
叫んでいる。
俺の名を、必死に呼んでいる。
崩れ落ちる地面が、俺に追いついた。
跳んだ。
足下に、闇が広がる。
ナビ。
手を伸ばしている。
俺も思い切り、前に出した。
ナビの小さな手を握った瞬間、黄金色の光に包まれた。
そして、何かとても、懐かしい気持ちに満たされた。




