第百八十話 大乱終焉
世界が静止した。
人も、風も、音も。
私を置き去りにした。
一人だけの孤独な世界。
本当は、少しずつ動いている。
私にとって、それは止まっているのと同じだ。
空中に留まっている矢を、剣で叩き折った。
馬から飛び降りた。
丘の頂きは、もうすぐそこだ。
乗っていた馬の尻を、軽く刺した。
間延びした嘶きが、私の鼓膜をゆっくりと震わす。
これで、何処かへ逃げてくれるだろう。
自分の足を踏み出した瞬間、全身を激痛が襲った。
ぶちぶちと、何かが千切れる音がした。
真っ直ぐ立っているはずなのに、視界が暴れる。焦点が合わない。
身体が上手く動かない。
神経が、焼き切れていく。
走った。
停止した世界の中で、私だけが普通に動ける。
限りなく、引き延ばされた時間。
“観測者の力”
違う。そうではない。
動体視力を高め、身体の反応速度を速める。
緩やかに時が流ているように見えても、実際はそうではない。
そう感じているだけだ。
行き過ぎれば自分の身体さえも、実際の時の流れに置き去りにされる。
だが箍が外れた今は、感覚の通りに身体を動かせる。動いてしまう。
ただ当たり前のように手足を使うだけで、実際には人体の限界を超えた速度で行動していることになる。
絶大な負荷が、のしかかってくる。
矢を掻い潜り、敵兵の最前列に辿り着いた。
二の矢を番えかけている兵たちの首を、順々に刎ねていく。
剣を振るたびに体内の血管が弾け、私の肌を朱く染めていく。
年老いた私の身体は、この負荷に耐えきれず、間もなく勝手に息絶えるだろう。
固く閉じ込められた力。
自らの意思では解けない。
そして、自らの意思では抑えられない。
そうだ。私はこれ程までの力は、望んではいなかった。
剣。矛。
無数に迫ってくる。
身を屈め、捻じり、凶刃を掻い潜る。
突き刺し、薙ぎ、朱い霧を舞わせる。
息が上がる。
肺に届く空気までもが、遅くなったように感じる。
力の封印。
私を守る為に。
私の命を、永らえさせる為に。
では、なぜ。
なぜ今にして、この力は目覚めたのか。
分かっている。
目覚めさせられた。
誰に。
世界の理。
“歴史の強制力”。
分かってる。
“お前はもう死んでいい”
“観るべきものは、全て観た”
“次の時代へ、さっさと逝け”
そう、言っているのだろう。
眼前の首を、一振りで二つ飛ばした。
後方に回った敵。
逆手にして、背後に向かって突き刺した。
右手の敵。
足刀蹴り。
豪速の巨岩を見舞われたように、腹が押され、内臓が潰れる。
その感触が、じわじわと足に伝わる。
喉の奥から、何かが込み上げてきた。
血反吐を吐いた。
足がふらつく。
鈍く風を切る音。
見向きもせずその方向に、無造作に剣を突き出した。
叫びを押し潰したような、間の抜けた声が届いた。
私の傍で、兵が一人崩れ落ちた。
手に持つ剣の重みが、徐々に増していく。
剣だけではない。
身体中に重石を括りつけられているようだ。
それでも何者よりも速く、私の身体は動く。
殺して、前へ。殺して、前へ。
少しずつ、軍勢の奥へ分け入っていく。
狗古智卑狗。
丘の上の、更に少し高い場所。
私の死ぬ所が、観たいのか。
もうすぐだ。
もうすぐ私は事切れる。
力の代償。
今、自分のどこがどう壊れているのか、全く分からない。
私が欲した時、与えられなかった力。
望まぬ時に、押し付けられる力。
生きる時も、死ぬ時も、決められなければならないのか。
“観測者”。
この時代に、無関係な人間なのだから。
ふざけるな。
私は。俺は。
間違いなく、この時代に生きている。
俺は日御子たちに出会って、日御子たちと生きた。
ここにいる俺は、この時代を生きる資格がある。
未来を創るために足掻く権利は、その時代の全ての人間が握っている。
お前に終わらさせない。
俺はまだ、見届けなければならない。
突き出された矛。
上体を傾けて避けた。
引き戻されるよりも速く駆けた。
敵に身体を預けるように、もたれかかった。
前に出した切っ先が、腹を突き破った。
柄を手離した。
左から飛び出した矛。
掴み、足を払った。
得物を奪い取り、倒れた敵の背を突いた。
走った。
もう、止まらない。
突き、叩いて、塞ぎ立つ敵を打ち倒す。
敵陣の深奥。
狗古智卑狗。
捕虜の証言と、特徴が一致する。
数人に護られている。
高台へ足をかける。
敵が飛んだ。
頭上を影が覆う。
顔を上げる。
兵が空に留まっている。
空中に吊り下げられているようで、滑稽だった。
ゆるりと、矛を突き出す。
突き出したつもりだった。
腕が動かない。
いや動いてはいる。
酷く鈍い。
停止した時間に、身体がついて来れなくなっている。
辛うじて右へ避けた。
左肩を斬られ、肉が抉られた。
片手で短く持ち、首筋を裂いた。
狗古智卑狗。
駆け下りる。
丁度いい。
もう歩くのも疲れた。
脇腹に、冷たい感触が当たった。
ゆっくりゆっくりと、それが私の中に入り込んでくる。
矛。
刺された。
いつの間にか視界の大半を、闇が覆っていた。
視えない。何も。
背中。
また刺されたのか。
視えない。何も。
狗古智卑狗。笑っている。
お前だけは、視えている。
振り上がった狗古智卑狗の腕。
多分その先には剣が握られている。
足。
動け。
前に。
踏み出た。
軋んだ音とともに、骨が割れた。
腕。
矛。
停止した、観測者だけの時間。
戻った。
俺だけの時間。
動いた。
何よりも速く。
肉を貫く感覚。
狗古智卑狗。
胸の真ん中に、矛が突き刺さっている。
こちらの左肩には、狗古智卑狗の剣が届いていた。
鎖骨を割り、肩の半ばまで両断している。
目が合う。
笑いながら、血の泡を吹いている。
矛を手離し、狗古智卑狗の剣の柄を握った。
引き剥がし、奪い取った。
僅かな抵抗も、感じられなかった。
脇腹と背中を刺した敵を、斬り殺した。
狗古智卑狗を向く。
剣を、振り上げる。
血の泡を溢れさせながら、狗古智卑狗の口が上下する。
「……なんだ、もう終わりか」
そう言った気がする。
剣を薙いだ。
首が舞う。
笑っていた。
振り返った。
狗奴の軍勢が、押し寄せてきていた。
掠れた目で、その先を見つめた。
丘の下。
連合国軍。
狗奴国勢に、攻めかかっていた。
次々と、敵を討ち取っていく。
王が重傷を負い、指揮官を失った軍に、まともに戦う力はない。
孫堅。
何故か、思い出した。
あいつが告げた言葉。
俺に託した願い。
“奪う戦いではなく、守るための戦いを続けてくれ。その先にある国がどんな姿なのか。世に示してほしいのだ”
確かにそう言っていた。
丘下を、もう一度見渡す。
今、多くの血が、目の前で失われている。
日御子の想いを、台与の未来を、彼女たちの愛する人を守る為に。
守る為の戦い。
これが本当にそうなのか、俺には分からない。
ただ、孫堅はきっと、悲しい顔をするのだろう。
「ごめん、孫堅」
仲間たちの姿が、遮られる。
四方を狗奴国兵が囲む。
その場に立ったまま、剣を振った。
飛びかかってきた兵の首が舞った。
それを合図にしたように、一斉に斬り掛かってきた。
もう足は動かない。
近づいてきた者を迎えるように、無造作に剣を振るい続けた。
視界は殆ど闇に溶けている。
誰かの叫びと、倒れる音。
それさえも、遠いさざめきでしかない。
そして俺の剣が、虚空を斬った。
膝が崩れる。
倒れかけた身体を、無数の刃が迎えた。
穏やかに、少しずつ、優しい激痛が、身体中に入り込んでくる。
日御子……、タケル……。
やっと、終わったよ。
お前たちの時代が、ちゃんと次に繋がったんだ。
これで俺も、少し休めるよ。
最後の一息を吐いた時、俺の時間も、歩みを止めた。




