第百七十九話 止まる世界
馬に跨った瞬間、身体の虚脱感はどこかへと消えていった。
寧ろ、このまま何時までも戦い続けられるような。そんな万能感のようなものに包まれている。
それが長く続くものではないことを、私は理解しているが。
「捕えた三人は解放してやれ」
兵の一人にそう告げた。
「戦には間に合わん。逃がしたところで、何の影響もない」
「承知しました」
これから狗奴国の兵を何人も殺めるというのに、捕虜の命を助けて何になるのか。
兵の背中を見送りながら、私は自嘲した。
「全兵、配置につきました」
入れ替わりに、掖邪狗が報告に現れた。
「この戦いが最後だ、掖邪狗」
「狙うは狗古智卑狗の首ですね。でも、狗奴健王は、いいんですか」
「奴も斬るさ。奴だけじゃない、今私たちの前にいる狗奴の者たちは、誰一人残さず殺し尽くす。向こう十五年は、戦など起こせぬようにな」
「十五年……。なんで、十五年なんですか」
「私がまた戦える齢になるまで、最低でもそれだけかかるだろ」
「持衰様……?」
掖邪狗の表情に、困惑と驚愕が浮かぶ。
爺がとうとう耄碌した。
そんな風にでも思っているのだろう。
「持衰様、やっぱり指揮は俺が……」
「掖邪狗、先ずは天照軍が騎馬を蹴散らし、敵本隊に穴を空ける。狗古智卑狗の首を真っ直ぐに狙う。その後、天照軍は撤退。入れ替わりに歩兵で攻め立てろ。完全に狗奴国軍を叩き潰せ」
掖邪狗を遮るように、私はそう捲し立てた。
思わずといった様子で、掖邪狗が口を噤んだ。
「いいか。お前が動くのは、我々が戻り始めた時だ。それまでは、何があっても動くな。何があってもだぞ」
「持衰様、まさか……」
兵の耳がある。
流石に掖邪狗は、その後の言葉を呑み込んだ。
「勘違いするな。天照軍は必ず無事に帰す。だから早まるなということだ。少ない命を守るために、全ての兵を殺すわけにはいかない。これは戦だ」
「わかりました……」
「その後は全軍で連合国領まで撤退しろ。軍が消えた狗奴国領を押さえようなどと、余計なことも考えなくていい」
「はい」
「ではな、掖邪狗。難升米たちに宜しく伝えてくれ。後は任せたぞ」
「持衰様、何を……」
振り切るように、私は馬腹を蹴った。
丘の斜面を駆け下り、騎馬隊の速度が乗る。
「いいか、迅速な撤退が重要となる。私の合図が出たら、直ぐに馬を返せ。何があっても引き返すなよ。自身が生き残ることを優先しろ」
疾駆しながら、天照軍の兵たちに叫んだ。
兵たちがそれぞれに相槌を打つ。
狗奴国軍は飽くまで待ちの姿勢だった。
四百ずつを丘の左右に配し、残りの八百の歩兵、八十の騎馬隊は丘上に待機している。
どこから攻めても、逆落としにかけられるだろう。
構わず、正面から向かった。
左右の狗奴国軍が両側から挟み込もうとしてきたが、私たちはそれよりも速く、丘の斜面を駆け登り始めた。
狗奴国の歩兵隊が逆落としを仕掛けてきた。
包み込むように、斜面一杯に並んでいる。
しかし厚みもある。
私は神経を研ぎ澄ませた。
急速に、時の流れが緩やかになる。
観測者を保護するために、私に与えられた力。
動体視力と反応速度が、格段に向上する。
武の才に恵まれない“観測者”が、最低限生き残るための救済措置。
絶対的な力の差のある人間や、人の力ではどうしようもない状況では通じはしない。
本来ならば。
手綱を操り、自分と、天照軍の進む先を調節した。
隊列は一直線に並べた。
目の前の視界を、狗奴の兵が覆う。
傾斜を利用して、物凄い速さで駆け下っているはずなのに、まるで歩いているように見える。
人も馬も、私自身の動きさえも、あり得ないほど緩慢だ。
敵兵は壁のように密集しているが、人と人だ。
最前線の敵の並びを観察し、最も間隙の広がった瞬間を狙って馬を滑りこませた。
敵兵の顔が見える。
呆気に取られている者、恐怖に歪む者、殺意を剥き出しにする者。
その全ての表情を、私は認識出来ている。
どの人間よりも素早く、私は剣を突き出した。
喉笛、心臓、急所を貫き、時に首を刎ねる。
矛。
左右。
同時に。
同時ではない。
左、右。
僅かなズレがある。
速く届く方から、弾いた。
後ろに付いた兵たちが、止めを差していく。
抜けた。
頂きが視える。
狗奴健。
待っている。
我々を引きつけ、逆落としを仕掛ける。
「反転」
天照軍の列が全て抜け出る前に、私は馬首を返した。
弧を描きながら、再び天照軍が敵の後方に向かっていく。
その刹那、丘の左右にいた狗奴国兵たちが、中央に動き始めたのを、私は見た。
飛び込んだ。
今度は半ば、こちらが逆落としになっている。
敵は反転せず、そのまま丘の麓へ向かって走っている。
麓の兵たちと合流するつもりだ。
「丘の下に控えていた敵が待ち構えている。合流される前に突き破れ」
傾斜でつけた勢いのまま、敵の背を馬で踏みつぶしながら進んでいく。
手の届く敵は、背中を突き刺す。
そうしながら、私は馬を走らせた。
その後ろを、天照軍が一列についてくる。
兵たちは、ただ駆けることを優先している。
それでいい。
駆けながら、ゆっくりと周囲を見渡す。
人とは違う時の流れに、今の私はいる。
丘上の狗奴健が、左右に剣を振り、突き出した。
少しだけ、私は馬脚を落とした。
抜けた。
もう目の前には、麓の敵が並んでいる。
逆茂木。
用意がいい。
そして判断も早い。
狗奴健の指示。
天照軍は間に合わない。
槍のような壁の穂先に、自ら刺し貫かれるしかない。
一瞬の間。
充分な時間だ。
「私を追うな。真っ直ぐ走れ」
手綱で叩き、腹を蹴った。
合図は出していない。
私一人が、先行している。
今の進行方向から馬体一つ分、右にずらした。
槍の壁。
私が狗奴国に対して、タケルに対して幾度となく仕掛けた罠。
あいつは、馬と飛んだな。
ならば私も、それに倣おう。
逆茂木に、馬が吸われる。
徐々に、徐々に、鋭い先端が馬の肉体にめり込んでいく。
貫通した、朱く濡れた穂先の一つが、私の頭部をも串刺しにしようと迫ってくる。
「すまん」
馬の背を踏み、私は跳躍した。
目の前の逆茂木の一つを掴み、空中で方向を左へ変えた。
逆茂木を支える兵の一人の顔を、蹴り飛ばして着地した。
反応しきれていない残りの兵も斬り伏せた。
逆茂木を掴み上げ、投げ飛ばす。
そこへ天照軍の騎馬が顔を出した。
兵の手を掴み、その後ろに跳び乗った。
歩兵の群れを、完全に抜けた。
馬は一頭失ったが、まだ一人の犠牲も出していない。
「だがタケルと比べて、何とも不恰好だな」
兵の背に隠れ、自分の滑稽さを笑った。
「お前もそう思わないか、狗奴健」
思い切り、剣を振った。
熱い火花が散り、衝撃が響く。
いつもの狂気染みた笑いを浮かべた狗奴健が、私の前にいた。
勢いに耐えられず、兵と馬ともども、私は地に投げ出された。
天照軍の鼻先を、狗奴国の騎馬隊が走り抜ける。
横倒しになった馬は、脚をばたつかせながらもがき苦しんでいる。
左前脚が、異様な形に折れ曲がっていた。
私は首筋に剣を吸い込ませた。
何度か痙攣を繰り返し、絶命した。
天照軍が先に引き返してきた。
守るように、私を取り囲む。
兵の一人から馬を譲り受け、再び馬上についた。
「お前たち二人は掖邪狗に合流しろ」
頷き、兵が駆け出した。
反転した狗奴健が再び迫ってきていた。
二人の兵には見向きもしていない。
ただ、私の首を狙っている。
「お前とも、ここまでにしよう」
駆けた。
狗奴健。
鋼のような人馬が一つとなり、鉄塊となって私に迫る。
咆哮が、大気を切り裂く。
剣と剣。
噛み合い、耳を劈くような、高音が爆ぜる。
馳せ違った。
反転する。
お互いの軍が、自身の身体のように動いている。
ただ一つの存在となる。
私と狗奴健。
一騎と一騎の戦い。
もう一度、両頭を突き合わせる。
狗奴健の牙。
私を襲う。
鉄さえも、噛み砕くだろう。
だが、遅い。
馬首を僅かに傾けた。
状態を逸らす。
狗奴健の牙は、空を喰らった。
斬り上げた。
首が覗く。
一閃。
タケルの息子。
似ている。
面影。
狗奴健。
“自分の名は、息子に渡した”
タケルはそう言っていた。
照れ臭そうな声で。
少しだけ、嬉しそうな顔で。
それを、殺す。
私が。
刃を振り抜け。
それで終わる。
もう終わらせたい。
緩慢な時間。
私だけがそこにいる。
誰かが、その時間に割り込んだ。
狗奴健の剣。
私の軌道を遮った。
弾けた剣を、素早く返した。
狗奴健の右肩から胸板にかけて、朱い線を刻んだ。
駆け抜けた。
後方で、重く響く音。
狗奴健。
落馬した。
狗奴の騎馬隊は脚を止め、自分たちの王を抱き起こす。
観測者の力。
それを抑え込んでいる。
許昌の乱の時ほどの力は、まだ出してはいない。
年老いた身体でそれを行えば、私はすぐに死ぬだろう。
狗奴健が生きる余地が、そこに出来た。
今引き返せば、止めを刺せる。
僅かな逡巡。
そして地響き。
狗奴の歩兵隊。
向かってきている。
王を救いに。
馬首を返した。
歩兵に向けて。
「横に広がれ。蹂躙しろ」
隊列も何もない。
遮二無二突っ込んできている。
敵を観る。
正面に千と少し。
丘上に五百。
そこに、狗古智卑狗がいる。
横並びになった天照軍が津波の如く、狗奴国軍を流し潰す。
鉄の刃が、易々と皮甲を裂き、青銅の矛を折る。
鉄と馬の荒波の中に、次々と敵兵が沈んでいく。
歩兵の軍を抜けた頃には、天照軍は敵の血で、朱い波濤と成り果てていた。
正面の丘を再び登る。
馬も兵も、限界を超えている。
そんなものを忘れたように、駆け、戦っている。
だがあと僅かの間に、それも続かなくなるだろう。
頂上の五百。
泰然と、こちらを眺めている。
いつ、逆落としを仕掛けてくるのか。
動かない。
半分以上、丘を登った。
動かない。
あと数歩。
「反転」
叫んだ。
逆茂木と、弓。
逆落としは無い。
騎馬が左右に別れながら、引き返していく。
ただ一人を除いて。
真っ直ぐに、私は頂上へ駆ける。
狗奴の鏃の全てが、私に向く。
青銅の雨が降った。
私だけに、降り注いでくる。
その時。
雨が、止まった。
世界が私を置いて、静止した。




