第百七十七話 父に並ぶ者
陽が中天に差し掛かっても、連合国軍が動く事はなかった。
ただ丘の上から狗奴健たちを、じっと見下ろしている。
その数は千にも満たない。
そして、どこかしらに潜んでいる天照軍以外に、もう敵はいない。
「何が狙いだ。敵領のど真ん中で対陣を長引かせてどうする。糧食の補給もままならないだろうに」
「また、奇襲を狙っているのでしょうか」
傍らの狗古智卑狗が呟いた。
昨夜の奇襲のことを、狗奴健は思い起こした。
何もない所から、歩兵が現れた。
それは信じれないことで、日御子が操ったとされる、鬼道とか言う得体のしれない力が、敵にも宿ったのではないかと思った。
それは兵たちも同じだった。
側面を突かれたと中段は混乱に陥り、終いには同士討ちまで始めたようだった。
暗闇で敵味方の識別が叶わなかったのも大きかった。
そんな闇の中で連合国の兵たちは、正確に敵兵だけを討ち取っていった。
合言葉のようなものを呼びかけ合い、それで敵味方を区別していたのだ。
「そう思うか?」
「……いえ、二度はないでしょう。陽が沈みかけた時に、視界が狭まる。その頃合いに合わせての奇襲。向こうの位置を把握している今、同じ手は喰いません」
「見事ではあったがな。連合国との戦で、俺はいつも翻弄されてばかりだ」
そして父の卑弥弓呼は、いつもその上をいっていた。
父は言葉無く、狗奴健に戦いを教えてくれた。
父亡き今、戦いの師は敵である連合国だ。
どれだけ負けても、死ななければいい。
負けて得た学びが、奴らを凌駕させてくれる。
「何かを待っている。考えられるのは援軍だな」
その言葉に、狗古智卑狗は何も答えなかった。
「武埴安彦が討ち取られ、連合国の様子が分からなくなったか」
「……仰っている意味が」
「通じていたんだろう、武埴安彦と。ひょっとしたら、吉備の温羅とか言う賊とも」
「……お言葉ではありますが、飛んだ邪推だと、申し上げる他ございません。私はただ、我が国の安寧のために最善を尽くしております」
狗古智卑狗は表情ひとつ変えず、淡々と、しかしどこか拒絶の響きを含んだ声で返した。その瞳は、丘の上の敵軍から逸らされることはない。
狗奴健は、それ以上は追求しなかった。
この男の暗躍を許したのは、他でもない自分なのだ。
狗奴国には、この男の知略が必要なのだ。
今は、まだ。
「まあいいだろう。今は目の前の敵だ。これ以上時間を与えるべきではない。俺の勘だがな」
「打って出られますか」
「ああ。奇策に奇策を重ねられ、後手に回るのはもう御免だ。奴らが何かを待っているというなら、その時が来たる前に、あの丘を血で染め上げて見せよう」
狗奴健が腰の鉄剣を抜き放ち、中天の太陽にかざした。
連合国ほどではないが、狗奴国にも鉄の力はある。
鉄剣の眩い反射が、狗奴国の陣営に一斉に伝播する。
「全軍、方陣を解け。 鏃型の陣へと組み直せ。 狙うは丘の上の本陣だ。恐れるなよ、鬼道など単なる欺かしだ」
進発した。
千六百の軍が矢のような隊形を取った。
兵たちが鬨の声を上げ、鉦を打ち鳴らし、土笛の音が大気を駆ける。
単なる鼓舞や威嚇ではない。
夜の間に放った、五百の別働隊への合図にもなる。
敵が動かなかったのは、こちらにも幸いした。
別働隊が背後に回り込む時間は、十分にあったはずだ。
連合国軍が、丘の後方へ駆け下りていった。
ぶつかる気はないようだ。
やはり時間を稼いでいる。
「慌てて追うな。隊列を乱さず、足並みを揃えろ。別働隊が奴らを足止めする」
馬上から叫びながら、逸る兵たちを制し、狗奴健は獲物を追い詰める猟犬のような鋭い視線で丘を睨みつけた。
丘を駆け下りる連合国軍の背中は、一見すれば敗走のようにも見える。
だが、狗奴健の肌にまとわりつく空気は、勝利の予感とは程遠い、粘りつくような警戒心を呼び起こしていた。
あの軍のことだ。
何を仕掛けてくるか分からない。
「隊列から離れ、遠巻きにしてついて来い。俺達が交戦に入ったら、横から突け」
五十騎に指示を出し、別れさせた。
敵は百騎。こちらの総数は二百四十騎ほど。
やり過ぎとも思えるが、あらゆる事態に対処出来るようにしておきたい。
そして、その警戒が正解であったことが、間もなく証明された。
「来たか」
蹄が大地を蹴りつける音が、広い平野に響き渡った。
たった百騎にまで減った天照軍が、単独でこちらに向かって来ている。
本隊を逃がすための死に兵。
そのような生易しいものではない。
隙あらば自らの牙だけで喰い千切る。
勝つための殺意が、小さな馬群から立ち昇っている。
騎馬隊を前に出し、歩兵隊を守る形を取った。
先頭を、狗奴健が駆ける。
「掖邪狗、今度は何を見せてくれる」
期待に胸が高鳴る。
同時に、今度こそ息の根を止めてやろうと、闘争心が滾る。
距離が縮まる。
もうぶつかる。
天照軍に変わった動きはない。
あの掖邪狗が小細工なしで戦うのか。
一瞬、横目を向けると、離れさせた五十騎の影が視えた。
絶妙な頃合いだ。
狗奴健たちが敵にぶつかった直後、連合軍の側面に突き刺さる。
先頭の敵の顔が、はっきりと目に映る。
掖邪狗。
違う。
白髪の男。
――父上?
白髪の男が、突如動きを変えた。
その一騎だけが、まるで鈎の手のように軌道を折った。
その先には、狗奴健の別働隊、五十騎がいる。
背中を目で追うことさえ叶わなかった。
その瞬間には、残りの敵騎兵がもう目の前にいた。
敵兵の鉄矛が伸びてくる。
青銅の武器では太刀打ち出来ない。
斬り上げた。
細身の鉄矛が、穂先から折れた。
見開かれる相手の眼。
狗奴健が握っているのは、鉄の剣だ。
父の卑弥弓呼は、青銅で鉄を折った。
得物を砕かれた敵が、背後で討ち取られ、叫ぶ。
馬上で剣を振り続けながら、先頭を疾駆する。
矛を折り、凶刃を撥ねる。
それに続く騎兵たちが、敵に止めを刺していく。
抜けた。
消えたあの一騎は。
一瞬、父の姿に重なった。
だが違う。
あの男は知っている。
持衰。
何者を相手取ろうとも、絶対の自信を崩すことがなかった父が、唯一気にかけ続けていた男。
周囲に目を配ったのは一瞬だった。
敵騎兵は既に反転している。
狗奴健も騎馬隊全軍を回頭させた。
その間に主力の歩兵隊が通り過ぎていった。
敵本体の追撃は、そのまま狗古智卑狗に任せる。
その代わり、敵の騎馬を引き受ける。
二十騎は討った。
敵は八十騎。
このままなら、全て討ち取れる。
向き合った。
正面で、騎馬の風に煽られて、揺れる白髪が目に入った。
持衰。
何故だ。
何故そこにいるのだ。
その背後の地平線には、更に信じ難い光景が広がっていた。
力なく馬の首に縋り付き、統制を失って方々へ散っていく影。
あるいは、主を失って無人で行く先を変える馬の群れ。
狗奴健が放った五十の別働隊。
いや、そうだったものだ。
もはや、軍と呼べるようなものではなかった。
たった一人で、五十騎を打ち破ったのか。
そんな事が出来る人間が、父以外にもいるのか。
馬腹を蹴り上げた。
全力の疾駆。
味方から僅かに先行する形になる。
自分がこの男を討ち取らなければ、ただ兵を死なせるだけとなる。
そう判断した。
持衰が天照軍を左右に分けた。
狗奴健たちとは逆に、天照軍は左右から、持衰を置いて先行する。
狗奴健は、持衰だけを見つめている。
天照軍もまた、狗奴健には目もくれず、左右を通り過ぎていった。
白髪の男が、急速に近づく。
身体が燃える。
闘志が熱となって、全身を駆け巡る。
一方で相対する持衰は、戦場を駆けているとは思えぬほど、涼しい目をしていた。
狗奴健の放つ一撃を、ただ静かに待っている。
馳せ違い様の一閃。
ただ、虚空を斬った。
いるはずの持衰が、どこにもいなかった。
手綱を引いて馬を止め、その場で回った。
振り返った時には、騎馬同士が上げる土煙の中に、持衰が身を投じるところだった。
次々と、兵が馬から投げ出されていく。
その多くが狗奴国兵である。
白髪が揺れるたびに、兵が馬上から姿を消す。
異常な強さと言わざるを得ない。
あの老人一人の働きで、どれ程の兵を失えばいいのか。
持衰は、ここまでの強さではなかったはずだ。
これではまるで父、卑弥弓呼に匹敵するほどの強さではないか。
一体奴に、何が起こっているのか。
狗奴健が救援に駆けた。
その瞬間、天照軍が狗奴国の騎馬隊を置いて駆け出した。
その先で、歩兵同士の戦闘が繰り広げられている。
連合の歩兵軍は、狗奴国の主力隊と奇襲隊に挟撃されているはずだ。
それを援護するつもりのようだ。
ただし持衰だけがまた、逆方向に駆け、狗奴健へと馬を駆けさせてくる。
持衰の向こう側に見える騎兵たちに、迷いが見えた。
天照軍を追うべきか、狗奴健の援護に回るべきか、決めあぐねているようだった。
「追え、俺に構うな。歩兵の援護に向かえ」
剣を振り上げながら叫んだ。
声が届いたかは定かではないが、狗奴健の意図を察し、騎馬隊は天照軍を追っていった。
狗奴健と持衰。
二人だけが取り残された。
もう、先程のようにやり過ごすことは出来ないはずだ。
持衰の背には天照軍と、連合国の主力軍がいる。
避ければ、真っ直ぐ狗奴健をそこへ向かわせることになる。
持衰。
馳せ違う。
その瞬間、剣を合わせた。
馬の足が止まる。
柔らかいものに触れたように、手応えがない。
威力をまた殺された。
それは読んでいた。
狗奴健もまた、力を抜いて剣を振るった。
持衰の目に、微かな戸惑いが宿る。
完全に振り切る直前に剣を返し、持衰の剣をかち上げた。
狗奴健の剛力をまともに受け、持衰の剣が手を離れた。
強引に手綱を引いた。
馬が棹立ちになる。
その状態で、振り向いた。
背後を取った。
持衰に得物はない。
剣を振った。
届く。
肩越しに、持衰が振り返った。
見ている。俺を。
観ている。
それがどうした。
振り抜き、斬った。
肉の感触。手に伝わる。
馬の嘶き。
斬ったのは、持衰の馬の首だった。
奴もまた、馬を回していた。
そしてその馬を、盾にした。
手綱を掴み、馬の首を中心に、持衰が跳んだ。
蹴り。
剣を振り抜いた直後だ。防ぎようがない。
顎に、激しい衝撃。
頭が揺れ、世界が高速で回る。
自分は今、どんな状態なのか。
理解した時には、地に仰向けに転がっていた。
傍らに倒れた持衰の馬。
遠くに、背を見せて駆けていく愛馬の姿があった。
馬上には、白髪の影が跨っていた。




