第百七十六話 薄暮の奇襲
白み始めた空を眺めた時、私は進発の号令を発した。
陽が沈み始めるこの時間。
視認距離は急速に短くなる。
その頃合いを見計らい、一息に距離を詰める。
埋伏に頼らなくとも、奇襲攻撃が成立する。
敵は歩兵をおよそ千名ずつの三段に分けていた。
その中段の側面を、九百の全軍で狙う。
ただでさえ、掖邪狗の天照軍に気を取られていた敵は、我々が何もない所から、突然現れたように感じているだろう。
敵に辿り着いた時には、空は殆ど、闇に沈んでいた。
その薄闇に紛れ、我ら九百の軍勢は黒い奔流となって敵の脇腹へと突き刺さった。
悲鳴と怒号が、冷え込み始めた大気に鋭く響き渡る。
「突き進め。足を止めるな」
私の号令と共に、先頭集団が敵の中段を切り裂いていく。
視界はもはや数歩先が限界だが、それこそが我々の望んだ状況だ。
敵は自らの陣容すら把握できず、暗闇の中で味方を斬り、混乱の渦に飲み込まれていく。
狗奴健の騎馬隊の馬蹄が宵闇に木霊する。
援護の為、こちらに接近しているのだろうが、最早敵と味方を視別するのは不可能だろう。
最早辺りは、完全なる漆黒に覆われている。
「闇に怯むな。手筈通りに動け。ここからが本番だ」
敵は既に同士討ちを始めている。
その危険性は、当然こちらにもある。
「ツクヨミ」
「スサノオ」
人にぶつかった時、声を発する。
取り決めた言葉が無ければ、そこで斬る。
単純な方法だが、看破されるよりも早く壊滅させる時間は、十分にある。
密着した状態で、相手の腹に剣を突き刺し、引き抜いた。
目には見えぬが、生温かい感触が、血が噴き出したことを私に教える。
「ツクヨミ」
「スサノオ」
敵に遭遇する機会が減ってきている。
周りはほぼ味方ということだろう。
手応えは十分だ。
千名からなる中段の備えは、この一撃で完全に崩壊した。
「撤退」
僅かな星明かり。
その並びの一つを目印にして、全員が駆ける。
事前に定めた、集結地点の小丘の上に集った時、私は闇の中に目を向けた。
狗奴健の騎馬隊が掲げたのであろう松明が、敵陣の中で点々と灯り始めている。
私たちの撤退にはもう気づいているのだろう。
狗奴国の陣営は、静けさを取り戻しつつある。
予想以上に、敵の混乱は少なかった。
「可愛げがないな、狗奴健」
奇襲は成功したが一度きりだ。
昼になれば寡兵で正面から、敵軍とぶつからなければならない。
暗がりの中で、兵の一人が這い寄ってくる気配があった。
「持衰様」
「被害状況は把握したか」
「はい。味方は誰一人、討ち取られた者はおりません」
味方に犠牲が無かったのは僥倖だ。
それに期待以上ではないにしても、敵に千名近くの損害は与えているだろう。
「……そうか、ご苦労だった。兵たちは全員休ませろ」
「よろしいのですか?」
「狗奴国はどうせ、我らの位置を掴めてはいない。その代わり、夜明け前には目を覚ますようにな」
「承知いたしました」
静かに、兵がその場を離れていった。
やがて、小丘の冷たい草むらに寝そべった私の耳に、夜風に混じって、兵たちの衣擦れの音が届いた。
篝は焚かない。
少し肌寒いが、火がなくてもまだ眠れる季節だ。
「お疲れさま」
「いや、これからさ……、やるべきことは」
私の傍に、ナビが腰を下ろしていた。
星空と、狗奴国の灯だけが瞬いているはずの夜に、ナビの姿は何よりも輝きを放って、漆黒の中に浮かび上がっていた。
「この時代に残された、私の時間は少ない。台与の為にしてやれる時間が……」
「これが最後の機会って、そう思ってるの?」
「日御子もタケルも死んだ」
「ただ見届けるだけなら……」
「それでは駄目だ。私はタケルに、日御子を託されたと思っている。そしてその日御子が、私に台与を任せたんだ」
「日御子ちゃんがキミに望んだのは、こんな事じゃないよ……」
ナビの顔が歪む。
美しく瞬くナビの黄金の光に、それはとても不釣り合いだ。
「私に出来ることは、これだけなんだ」
「やる必要はない。キミは“観測者”なんだから……」
「これが最後だって、言ったろう」
「この時代では、でしょ。生まれ変わっても、キミは変わらない。また大切な人を見つけて、キミはその人の為に無理をするんだよ」
ナビが鼻を鳴らした。
言葉には諦めたような響きがあるが、とても悲しそうな瞳をしていた。
「そんなことは……」
ない。とも言えなかった。
変えられない歴史に対して、無駄な反抗を繰り返しながら、私は永遠とも思えるような時を刻んでいく。
「ナビ、私でなければ、ならないのか」
「……どういうこと?」
「この先の歴史を“観測”して、修復する人間を、他の者には託せないのか。私はもう、ここで終わりたい……」
日御子と、タケルのもとに。
更に遠い昔。
首長や、孫堅のいる場所に、私も行きたい。
「ごめんなさい」
はっきりと、ナビが答えた。
懸命に、唇を引き結んで。
けれどその潤んだ瞳に、涙を留めることは出来ていなかった。
……すまない。
最もお前が、聴きたくない言葉だと、分かっていたのに。
見ていられなくなり、私はそっと目を閉じた。
柔らかく、私たちを風が撫ぜていく。
鼻を啜る音が、一つ聴こえた。
「てかさ……」
「なんだ」
「……さっきの合言葉、ちょっとセンスないんじゃない?」
「……その意趣返しの方法、そろそろ改めないか」
いつの間にか、私は眠っていた。
兵たちが武装を確かめる、金属や布が擦れ合う微かな物音で、私は目を覚ました。
周囲はまだ、深い闇に覆われていた。
空が次第に青白くなり、お互いの姿が認められるようになる頃には、戦備えは終わっていた。
狗奴国も既に動き始めていた。
こちらを警戒してか、昨夜よりも距離が空いている。
方々に馬を走らせているところを見ると、我々の伏兵を警戒をしているようだ。
混乱は見られない。
だが昨日の襲撃が、奴らの心に確実に疑念の種を植え付けている。
先ずはこちらの兵力を把握したいのだろう。
狗奴国の陣形は、百ほどの隊が六つに分かれ、方陣を組んでいる。
その中央に千名ほどの主力軍。
全方位に向けた守りの陣形と言える。
私はその数に違和感を覚えた。
「昨日の時点で三千以上の軍勢がいた。薄暮の奇襲でかなり減らしたが、それでも討ち取った数は千人足らずのはずだ」
つまり少なくとも、まだ五百ほどの兵は残っている事になる。
私は近くの低地に待機している、天照軍の掖邪狗に合図を送った。
すぐに一騎で、掖邪狗が丘を駆け上がってきた。
「見ろ、掖邪狗。敵の数が少ない」
「そう……なんですね。すみません、俺にはちょっと分かりません」
最後の夜襲に掖邪狗は参加していない。
数が分からないのは無理のないことかもしれないが、難升米や都市牛利なら、こんなことはないだろう。
「けど、それならつまり連中、どこかに味方を潜ませてるって事ですよね」
「その通りだ」
「うーん、どうします。こっちも兵を分けて、向こうの隠れた兵に警戒させますか」
「それが常道だが、兵力差があり過ぎる。その場合、狗奴健はいつまでも伏兵を使わないだろう。お互い兵を分けたなら、結局あちらの有利は変わらないのだからな」
「また、天照軍だけで突っ込みましょうか」
何でもない事のように、掖邪狗が言ってのけた。
自分や兵の命を軽んじているわけではない。
寧ろ大切に考えているからこそ、多のために少を犠牲にすることを厭わない。
それにこの男は、自分が簡単にやられるとも思っていないのだ。
「……奇襲は成った。次に移る前に、しばし時が欲しい」
「待てば、何かあるんですか」
「大和の五十狭芹彦が、温羅か吾田媛辺りから、狗奴と奴らを繋げた者の正体を突き止めているはずだ。我々にもそれを報せるように、五十狭芹彦には頼んである」
「それが、狗奴健じゃないんですか」
違う。狗奴健が、そんな回りくどい事を思いつくはずがない。
八年前の戦で、呉を倭国の戦に巻き込ませたのも、タケルではない。
今この倭国には、大乱の世を永久のものにしようという、悪意の根源が存在している。
それを滅しなければ、台与に平穏なる世を手渡すことが出来ない。
それまで、死ぬわけにはいかない。
「……持衰様?」
「掖邪狗、頼みがある」
それを伝えた時、掖邪狗は大いに反対した。
無理もないだろう。
こんな爺が、天照軍を率いて前線に立つと言うのだから。




