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倭国大乱 観測者は全ての歴史を見届ける  作者: 明石
第三章

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第百七十五話 血吸川

反射的に五十狭芹彦は後ろへ下がった。

足首まで沈むほどの川原だ。

水底の小石で、危うく滑りそうになった。


直後に鼻先を巨岩が掠めた。

したたかに川面を叩きつけ、激しく水柱を上げる。


辛うじて目を見開いてはいたが、視界が遮られ、温羅の巨躯を見失ってしまった。


左胸に激痛。

飛沫の中から現れた飛礫が、五十狭芹彦に激突した。


皮甲と、五十狭芹彦の厚い胸板に遮られても、芯まで響く威力があった。


「一辺倒な奴だ」


舌打ちと同時に、またも頭上から、死の岩塊が振り下ろされる。

五十狭芹彦は激痛に耐えながら、意識を研ぎ澄ませた。


空間を把握し、最低限、上体だけを反らせて躱す。

水飛沫が上がった瞬間、五十狭芹彦は片足を前に出した。

渾身の力を込め、温羅の巨岩を踏み押さえる。


「……っ!」


温羅が唸りながら、投石紐を引き上げようと力を込める。

五十狭芹彦も噛み折らんがばかりに、歯を食い縛った。

だが、長くは抑えきれない。

膂力においては、温羅の方が一段上なのだ。


五十狭芹彦は不意に、踏み込む力を一気に抜いた。

突如勢いをつけて、岩の塊が持ち上がる。

その力に逆らわず、五十狭芹彦も一緒に跳んだ。


岩を踏み台にして、更に大きく飛翔した。

一方で、体勢が乱れた温羅は、川の中で尻から倒れていた。


温羅の頭上に舞い上がった五十狭芹彦は、空中で切っ先を温羅に向けた。

落下の勢いを利用し、このまま突き殺す。


しかし、倒れ込みながらも温羅は諦めてはいなかった。

仰向けになったまま、温羅はその丸太のような腕を、自らの胸元で交差させた。


肉ではない、何か硬いものに、刃を突き立てたようだった。

五十狭芹彦の全体重が乗った一撃にもかかわらず、剣は手の平ほどの深さまでしか刺さっていない。


剣を突き立てたられた状態のまま、紐を握る手を、温羅が素早く引いた。


五十狭芹彦と温羅を、陰が覆う。


背後に、投石。


五十狭芹彦は温羅から離れようと、腕を蹴った。

だが、剣を引き抜けない。

刃を離すまいと、温羅が筋肉を締めているのだ。

剛腕に、太い血管が幾筋も浮き出ている。


五十狭芹彦は剣を手離し、背後へ跳んだ。

冷たい飛沫を舞い上げながら、五十狭芹彦は距離を置いて着地した。


巨岩は温羅へと降りかかったが、この男はそれを左手で受け止めた。

その瞬間、五十狭芹彦がつけた傷口から、鮮血が噴き出したが、温羅は気にも止めていないようだった。


怒りが、痛みを忘れさせているのか。

まさに鬼のような形相で、温羅がゆっくりと立ち上がった。

そして突き刺さったままの五十狭芹彦の剣を乱暴に引き抜き、川へ放った。

温羅の腕から朱い血が流れ落ち、川面を染めている。


温羅の血だけではない。

幾人もの敵味方の骸が、血を垂れ流しながら川に運ばれているのだ。

まるでこの川が、人の血を吸い上げているようだった。


「すまんな、貰うぞ」


流れたきた味方の死体の一つから、五十狭芹彦は剣を受け取った。

構え直し、温羅を見据える。


十二歩、距離が空いている。


「温羅、勝負は決した。頼みの武埴安彦たけはにやすひこは、どれだけ待っても現れはしない」


声を張り、温羅に呼びかけた。

辺りはまだ、戦いの狂騒に包まれている。


「五十狭芹彦だったか。お前が先に吉備に現れた時点で、察しはついておったわ。武埴安彦は討たれたのだろうとな」


虚勢ではない。

本当に見切りはつけていたらしい。


「だが、解せん。大和にまともな兵は残っていなかったはずだ」


「ああ。だから討伐に向かったと思わせ、すぐに大和へ軍を返したのだ」


「奴の裏切りを見破っただと。そんなしくじりをするような男には、思えなかったがな」


「我らには、鬼道を操りし巫女がついておられるからな」


五十狭芹彦の言葉に、温羅が鼻を鳴らした。


「鬼道だと。なんだそれは。鬼と呼ばれる儂でさえ、そんな物は知らんぞ」


「お前のような邪鬼と一緒にするな。親魏倭王様、そしてそのご宗女、台与様の鬼道は、神の理を司りし御力だ」


「台与? 台与だと。おい、ちょっと待て。まさか武埴安彦の裏切りを看破したというのは」


「台与様を知っているのか」


温羅は武埴安彦と通じていた。

その武埴安彦は、台与の大和においての世話役だった。

温羅が知っているのも、不思議ではない。


「答えろ。武埴安彦の反乱を見抜いたのは、台与なのか」


温羅が動揺している。

なぜそこまで台与の名に反応するのか、五十狭芹彦には分からなかった。


「ああ、そうだ」


「まさかな、そんな事が」


顎髭をしごきながら、小声で何か呟いている。

戦いの最中だというのに、温羅は五十狭芹彦に見向きもしていない。


隙だらけだ。

だが、温羅が投降を決断する僅かな可能性を、五十狭芹彦は捨てきっていなかった。

斬る覚悟は出来ているが、温羅の考えを、先に知りたかった。


五十狭芹彦は目の前の温羅の様子を、黙って見守っていた。

その温羅が、肩を震わせている。

最初は噛み殺した笑いだったが、それがすぐに哄笑へと変わった。


「武埴安彦。憐れな男だ。台与の為に戦いを挑み、他でもない、その台与によって討たれるとはな」


戦場の喧騒を打ち消すほどの、大笑だった。

思わず戦いが止み、皆の視線が集まった。


「愚かだな、武埴安彦。だが儂はお前が好きだったぞ」


温羅の笑いが、突然止まった。

代わりに針のような鋭い眼光を、五十狭芹彦に突き刺した。


やはり応じない。


五十狭芹彦が飛び出すのと、温羅が投石紐を振り抜いたのは、ほぼ同時だった。

水面を激しく揺らしながら、岩の塊が水平に迫ってきた。


川底を蹴り上げて、五十狭芹彦が跳んだ。

岩が足下を通り過ぎた。


飛びかかり、斬りつける。

それより早く、温羅が左手で飛礫を放った。

滞空したまま剣で防いだが、勢いを殺され、そのまま着地した。

自ら跳ね上げた飛沫が、頬を打つ。


右手から轟音。

温羅が巧みに投石紐を操り、振り子のように、大岩が五十狭芹彦を襲う。


躱しきれない。

辛うじて岩と自分の間に剣を挟み込み、衝撃を受け流すように、ぶつけられる方向に跳んだ。


直撃を免れ勢いを殺したが、激しい痛みが五十狭芹彦を襲った。

肉が潰れて骨が軋む。


水面に打ち付けられ、川底に倒れ込んだ。

朱い川の水が、口の中に入り込む。

血の味がした。


水中から顔を上げると、もう目の前に巨岩が迫っていた。

倒れ込んだまま横に転がり、跳ね起きた。

すぐ隣に岩が激突し、水流を弾き飛ばした。

一瞬、川底が顔を覗かせた。


頭から川の水を被った五十狭芹彦は、その白髪までもが朱く染まっていた。


身体中が軋んでいる。

何本か骨がやられているのだろう。


温羅が思い切り投石紐を引っ張り上げた。

投石紐が地を離れ、温羅のもとに引き寄せられる。

そして通り過ぎ、温羅の遥か後方で紐が伸び切り、静止した。


温羅が、叫んだ。


その咆哮が、吉備の空を震わせる。

後方で静止していた大岩が、振り子のことわりを超えた速度で、温羅の全身の力を乗せて解き放たれる。

これまでの投擲とは比べものにならない。

空気を断つ音さえ聞こえぬほどの、不可視の突進。


五十狭芹彦は、折れかけた肋骨の痛みを精神の奥底へ押し込んだ。

避けることは不可能。

ならば、選ぶ道は一つ。

五十狭芹彦は剣を正眼に構えたまま、あえて岩の正面へと踏み込んだ。

川面を蹴り、波紋を散らす。


朱く染まった白髪を振り乱しながら、温羅の必死の一撃へ身を投げ出した。


衝突の瞬間。


五十狭芹彦は剣の身を垂直に立て、岩の側面を削るように滑らせた。

火花が散り、鉄と岩が悲鳴を上げる。

粉々になりそうな両腕に力を込め、柄を死に物狂いで握り締めた。


巨岩の軌道が、僅かに逸れた。

その刹那、五十狭芹彦は身体を回し、投石紐の内側へと身を投じた。


温羅が投石紐を繰るよりも速く、五十狭芹彦は片手で紐を掴み、剣を斬り上げた。

更に剣を回して、投石紐を捻じり込み、刃と腕で引き千切った。


温羅の眼が見開かれる。

もう、温羅の握る紐の先に、あの巨岩は存在しない。


温羅を斬る。

その為の一歩。

何故か、足が動かない。

折れかかった柱のように、身体中が軋み声を上げている。


吠えた。

その音を、掻き消した。


踏み込んだ。

五十狭芹彦の太刀が吉備の空に、一筋の雷光を描いた。


温羅の首筋から、血飛沫が上がる。

首はまだ繋がっている。

刃を返し、逆側からまた一閃。


五十狭芹彦の二撃目は、温羅の首筋をさらに深く切り裂いた。

しかし、その凄まじい衝撃を正面から受けながらも、温羅の巨躯は倒れない。


口から血の泡を吐き出しながら、それでも声にならない叫びを上げ続けている。


温羅は自由になった右手で、五十狭芹彦の肩を鷲掴みにした。骨が砕けるような音が、川のせせらぎの中に響く。


「……鬼は、死なん……。いさせり……ひこ……」


その瞳には、まだ消えぬ執念が灯っている。

五十狭芹彦は肩の激痛に視界が白むのを感じながら、歯を食いしばった。


「温羅よ……。鬼ならば……、鬼道の女王に、屈するんだな」


満身の力を込めて、剣を押し込んだ。

温羅の首が、遂にその巨躯から分かたれた。


川に落ちた温羅の首を拾い、高々に掲げた。


もはや口上を叫ぶ力も残されていない。

だが、掲げられた鬼の首こそが、何よりも雄弁に戦いの終わりを告げていた。

騒乱に満ちていた川原が、潮が引くように静まり返っていく。


吉備の兵たちは、自分たちの王であり、神でもあった温羅の最期を目の当たりにし、手にしていた武器を次々と川底へ落とした。


五十狭芹彦は、震える膝をどうにか踏ん張り、立ち続けていた。

掲げた腕は鉛のように重く、肩の骨が砕けた痛みで意識が遠のきかける。

それでも、大和の将として、背を丸めるわけにはいかなかった。


「五十狭芹彦様」


留玉彦が駆け寄った。

五十狭芹彦ほどではないが、彼もまた、身体中に傷を負っている。

身に纏った皮甲は、何とも無惨な状態だった。


「鳥……、温羅の仲間たちは……」


「分かっています。抵抗を止めた者には、兵に手を出させません」


阿曽あぞの里……だったか……」


鬼山きのやまから最も近い里は、その名です。里の長の姉は、温羅の女房だったようです。長の阿曽男あぞおは、俺が討ち取りましたが」


「里の者からすれば……、我らは仇だ。……だが、我らにとってはそうではない。……温羅と長の首は、丁重に葬れ……。温羅が面倒を見ていた里の人間たちには、誠意を持って接しろ……」


「承知しました、五十狭芹彦様」


突然、意識が遠のいた。

膝から力が抜け、崩れ落ちそうになった。


「五十狭芹彦様」


留玉彦が、慌てて抱きとめた。


「……お前の愛した民たちは、俺が必ず責任を持つ。だから、それがせめてもの弔いだ……。吉備の鬼よ……」


首を失ってなお、倒れることなく立ち続ける吉備の鬼に向かって、五十狭芹彦はそう呟いた。


血に染まった川の流れは、少しずつ元の色に戻ろうとしている。

白み始めた空を眺めた時、五十狭芹彦もまた、短い眠りについたのだった。

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