【第3面】 (5)
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私は『ゲーム』のフィールドのどこかに雫のように落ちた。
周囲は、黒い空と、暗い雲。荒れ果てた廃墟だった。
空気には魔王の名残の臭気があった。骨がきしむ不快な感覚。この場所を覚えている。
『箱舟』は見えない。去ったのだろうか。ゲームの続きは前回のフィールドから始まった。ログアウトしたゲームは、再びログインするまで、ほぼ時間が硬直するらしい。緊張で身体が針金のように引き攣った。
足元には物体が乱雑に散らかっていた。私は本を拾い上げた。鋭利なもので切られ、前半だけが残っていた。裏表紙には『SC冒険者ガイド』と書かれていた。ユイが持っていた攻略本だった。
私達はまだ本の前半部さえ冒険していなかっただろう。魔王の攻撃で無残なゴミになってしまった。
そして私は、土にほとんど埋まっているような、人の手首を見付けた。
「ユイ……、まだ、こんな所に……。いえ……」
私はおののくような、息を吐くような声とともに、手首に顔を付けて、ユイに思いをめぐらせた。土から掘り出しただいこんのように、手首は冷たく、かたかった。
じゃらり。手の砂を拭き取っていた私は、手首に嵌められていた腕輪をみつけた。『魔法の引き出し』だ。私は腕輪を外した。地面に小さい穴を掘り、ユイの手首を埋めた。腕輪は持って行くことにした。ユイの形見だ。私は、ユイの一部を埋めた場所の上で、しばらく目を閉じた。
これから行くあてもないし目標もなかった。
目を開けた私の前に、糸が、落ちてきた。
糸だ。前触れもなく、はらりと落ちてきた。ふつうの縫い糸のような糸が私の頭上数十センチのところに垂れていた。
どこから垂れているのだろう。真上の方角だった。糸自体細いので、途中で消えているように見える。
糸は、空気の動きで揺れ、まわりの光を反射して冷めた銀色に光った。
いつからあったのか。しばらく前からあったのか。見慣れた建物でも、ふと上を見ると、壁の意外な模様に気付いたりする。そんな感じだった。
まず考えたのは『箱舟』の残滓かということだ。この糸は『箱舟』が浮いていた空から垂れている。繋がっているのかもしれない。
だが、虫がよくはいかないだろう……。この謎の糸は、握ったら、蜘蛛の糸のように切れたりするに違いない。だが、まあいいか。切れるだけなら無害だ。私はなにげなく、手を伸ばして、頭上の糸に触った――
――かと思うと、糸は私の手をかいくぐった。え? まるで意志を持ったようだ。この糸は何なのか? その瞬間、ズブッ。樽が潰れるような音がした。
糸は私の頭頂部を貫通していたのだ。体内に硬いものが食い込んだ感触。凍った針金が入ってくるみたいだ。でも、痛みは無かった。
ぶわっと、世界が下に沈んだ。
私は上空に引き上げられていた。
みるまに下の世界の景色が見えなくなった。
視界はブラックアウトした。カラダは上昇し続けた。感じたこともない圧力。たぶん、異常な速度で上昇していたのだろう。
しばらくして上昇が止まった。
ふたたび網膜に像が結んだ。私はスタジオのような場所に立っていた。しんと静まった、狭い四角い部屋。白い壁に囲まれていた……。
振り返ると、後ろの面は壁ではなかった。大きなガラス窓だった。
向こうに私が居た。
いや、私と同じ顔の、初めて見る人物。彼女は内側の読めない笑みで立っていた。私はガラス窓まで行く。
彼女の前には、放送の制御盤のような複雑な機械があった。彼女は微笑み、両手を上げた。全部の指に一つずつ、プラスチックのサック状の物体が嵌められていた。10個のサックからは、糸が10本伸びており、制御盤の所定の穴へと続いていた。私を吊り上げた、あの糸だった。彼女は両手を盤に滑らせるように、サックを盤に嵌めた。その機械は……いや、この部屋は、どこなのだろう?
彼女は、私の居る部屋と向こうの機械室とを繋ぐドアを、ゆっくり押し開けた。私と同じ顔の女性が、蠱惑的に手招きする。
「改めまして、はじめまして、こんにちは。突然のお呼びだて、申し訳ありません。どうぞ、お入りください」
彼女は形式的な挨拶をした。踵を揃えた機械的なおじぎは、サービス業の会社員のようだ。白黒を基調とした玄妙な服装は、民話の世界にも合うが、OLの制服にも見える。
私は、奇妙だが、この女性を敵とは感じなかった。声も私と同一、いや、宝石を転がすようにきれいだった。なんとも他人の気がしないのである。
「あなたは?」
「わたしですか? 僭越ですけれど、【ハイ・ショウブ】とでも言っていただければと。高
低のハイですね。この場所の案内人です」
彼女は私の手をとって、あたたかく、ゆっくりと握った。事務的だが優しい握手だった。
「案内……。この場所は一体、なに?」
「はい、この向こうになります」
【ハイ・ショウブ】と名乗る女性は、機械室の入り口らしい一枚の扉を示した。頑丈そうな厚い扉である。彼女は長いカギを鍵穴に刺し、がちゃりと開錠した。扉を押し開け、外に歩き出した。
「では参りましょう。お気に入られると思います。この『箱庭』を」
『箱庭』という語を聞いたことがある。
シェリィが使っていた言葉だ。彼女は自分が作ったステージを『箱庭』と言っていた。
この場所は、それと関係があるのか? 知らない土地だった。茫洋とした平原が、どこまでも続いていた。天気は、ぼんやりと明るい曇りだった。地平線のほうは靄のようなもので霞んでいた。まわりには枯れかけた芝生のような草が生えていて、目立つ建物も無かった。
「ねえ、この場所は何? まさか天国? 私はゲームオーバーになっていないはずだけど」
「あ、いい質問ですね。当たらずと言えども遠からず」
HSと名乗る女性は、やや驚いて、「プライベートな」顔をした。そして彼女はふたたび営業スマイルで言った。
「ご安心下さい。あなたはゲームオーバーになってはおりません。しかし、あなたは『ゲーム』の今後を迷っているようでした。われわれは、迷えるプレイヤーを発見したら、ここに携挙して差し上げることにしています。この『箱庭』は、ゲームの基本のフィールドよりも一枚上の次元です。ともあれ、ようこそ、『箱庭』へ。ここは、熾烈な『ゲーム』のガス抜きの場所。よかったらありったけガスを抜いてしまってもいいのですよ」
確かに迷っていたのは事実だ。しかし何か胡散臭い。それにどうも要領を得ない。
「結局、ガス抜きって、何をするわけなの?」
「何もしません。言うなれば、休暇です。ここはプレイヤーの遊休地です。ボーナスゲームみたいなものです。温泉も健康センターもあります。心ゆくまで滞在くださいませ」
いや、そんな老人くさい場所は求めていないが……だいたい、何も無いように見える。
「遊休地ということは、ここには私以外にもプレイヤーが?」
「そうですね。結構いらっしゃいます。しかし出会うことはまずありません。ここは非常に広いのです」
私は警戒しながら言う。
「前にも『箱庭』という場所に行ったことがあるけれど、敵のプレイヤーが作ったステージだったことがあったわ」
「それはおそらく、ここの模倣ですね。中堅レベル以上のプレイヤーさん達には、『箱庭』は知られています。レアな観光地という感じですね。本家はここなのです。ご安心ください。罠などはありません」
たしかに相当広いのか、ここでは他のプレイヤーの気配を感じなかった。かわりに、なんとも言えない気だるい空気が、春の日中のように漂っていた。次元が違うというのは本当なのかもしれない。
「いきなりだけど、とくに休みたくもないし、帰ろうと思うんだけど」
「帰っても、とくに行くあてもなく、途方にくれるのではないですか? 帰るのはいつでもできます。送って差し上げます。リフレッシュをかねて『箱庭』を見て回ってはいかがです?」
さりげなくセールストークに巻き込もうとしてくる。女性は私よりも話術に長けている。
「ここは、たいてい何でも揃うし、何でも叶います。だからボーナスゲームだと申し上げたのです。試されるのもよろしいでしょう」
「何をうまいことを」
私は一笑に付した。が、突拍子もないセールストークに内心食いつかなかったと言ったら、嘘になる。ボーナスという甘い語が警戒を緩ませる。しかし、慌ててはならない。何の代償を要求されるか分からないのだ。
「でも、そんなに言うなら、この『物件』のウリを見せてもらってもいいかな」
「かしこまりました」
HSは微笑を変えず頷いた。では、参りましょう。甘い声で囁き、私に肩を寄せて歩き出すのであった。この女性についていく結末は、はじめに会った時から決まっていた気がした。私は鏡に向かって自己暗示でもしていた気がした。顔が同じだからか。
しかし、私には、確固とした目論見があった。
何でも叶う場所――そうであるのなら、ユイを生き返らせる事ができるのでは……。
『箱舟』に襲われた時、ユイは体を張って私を助けてくれた。この『箱庭』に危険が潜んでいるとしても、私はユイのために行動してみようと思った。




