【第2面(裏面)】 (9)
【……ちゃん】
【ショーブちゃん】
呼ぶ声がした。
声は光のように感じられた。聞き覚えがあった。ユイ? ユイなの?
【そうですよ。戻ってきてください。冒険、つづけましょうよ。ユイ、待ちくたびれちゃいますよ?】
声は楽器のように調和ある音に聞こえた。ユイの声だとは思えないほどだった。シャワーのように優しく降り注いていた。散り散りになった私の一個一個を、温かく包んでくれた。でも、ごめん、ユイ、私はとんだドジを踏んでしまったのよ。今にも消えそうだわ。一緒に冒険してあげたいけど……。
【何いってるんですか。はやく起きてください。一人で面白そうな夢、見ないでほしいです】
え? 起きて?
【ショーブちゃんは寝てるだけじゃないですか。夢を見てるだけなんですよ】
夢? ああそうね。ここは「夢の夢」。私は酒場でエルフに薬を入れられて……。でも、とても悪い夢だわ。もう終わりよ。
【寝ぼけてるんですかあ?】
無邪気に辛辣なことを言うユイ。
【悪い夢って、結局は、夢じゃないですか。夢は夢ですよ。私達になにもできやしないんです。そんな当然のことが分からないなんて、やっぱり寝ぼけちゃってますね。わかりました。ユイが起こしてあげますよ】
無理でしょ。どうやってやるのよ。だって私、今、実体も無いのよ?(笑) 分子レベルに散った私を全て繋ぎ合わせると言うの? できるはずもないわ。
【そんなめんどくさい事にはなりませんよ。ユイは今、『まほうのひきだし』を装備しています。『ゲーム』には覚醒呪文が存在するのをご存知ですか? ■■■っていう呪文ですけどね。合宿所で僧侶の見習いをしていてラッキーでした。■■■は僧侶だけが使用できる呪文なんです。今のユイなら、唱えられるはずです】
粒子レベルながら、私は唖然とした。
覚醒呪文。
そんなことでこの状態から脱けられるのか? もとの私に戻れるのか?
もちろん、ほぼ戻れないだろう。ユイの楽観でしかないと思う。だが、■■■のとぼけた三文字で悪夢から抜け出せるなら、とても滑稽で笑ってしまう。役者ぶった男性の顔にクリームパイを叩き付けるように爽快だろう。なにより、ユイの介入で深刻な空気が吹き飛んだのは有り難かった。まったく、ユイは奇妙なほどに底抜けの楽天家だ。私自身、遠い子供時代、そうであった気がした。メンヘルはもう現実世界で見飽きた。メルヘンのほうが、ましだ。……ちょっと信じてみようかな。「夢の夢」に引き込む薬があるのなら、「夢の夢」から出る呪文だって、あってもいいのかも。
【大丈夫だよ。ショーブちゃんが『まほうのひきだし』を取ってくれましたからね。ショーブちゃんは勇者なんだから、しっかりしてほしいですよ。そして、ユイの前では、頼りになるお姉ちゃんで居てほしいです。おきてください。■■■】
私のまわりを蒸発させるように、呪文の響きが満たした。
私は全く違う場所で目を覚ました。
そして、今まで確かに寝ていたのだと分かった。
眠っていて、悪夢を見ていただけだったと。
私は、ジブンの肉体を取り戻していた。そばにはカウンターもあった。
つまり、ユイの覚醒呪文は、大成功したのだ。
しかし、起きないほうが良かったのだ。
戻って来た『ゲーム』の世界は、プレイ開始以来、最大の試練によって、私を攻撃した。
私は錯乱し、『ゲーム』への気構えが、一気に崩壊した。
私は『ゲーム』さえ失った――なぜなら私は、眼前の光景を見て、「現実世界へと逃避した」からだ。
*
『ゲーム』に還った私が見たのは、静かな景色だった。
荒れた薄暗い土地。現実的ではないが、『ゲーム』では慣れた景色だった。
だが、私は視覚ではなく、全身に異常に不吉な「流れ」と言うべきものを浴びた。何が起きたのかも形容しがたい。ただ、「悪い予感」がことごとく形になったものが今だ、という気がしたのだ。
寝そべっている私に、重い物がのしかかった。私は起き上がり、ソレをどけた。そのカラダは、ごろっと転がった。
ぐったりと弱ったユイだった。
ユイ?
あんたがどうして?
元気に喋っていたじゃない。呪文を唱えて私を起こしてくれたんじゃないの。何でこんなに傷だらけで痣だらけになってるの? 「ユイ、ユイ」と言いながら、私はユイを揺さぶる。自分の声が嘘くさく歪んで聞こえる。
「――――あぁ、 ――――ショーブ、ちゃん」
ユイは細く目を開き、ボリュームの小さい声で言った。その声は、死ぬ直前の蝉のようで、なぜか胸を絞められるものがあった。
「――へへ、あぶないところ、です。意識、が切れてました、よお。――――ショーブちゃん、おかえりです。うまくいったみたい、ですね、■■■」
ユイは錆びた機械のように硬く笑った。生乾きの血痕が付いた顔。ふにゃりと曲がった唇が、とても悲しく、綺麗に感じた。
「これはどういうことなの?」
私が、ゲーム内ゲームを彷徨っている間、何があったのか。どうして、ユイだけが衰弱し、私は無事なのか。しかし、うすうす、予想はついた。……ここは、もしかして。
骨の震える音。全身を抜ける吐き気。さっきから感じる途轍もない嫌悪感。低気圧の接近を千倍にもしたような、これは……。
私は、上を見た。
スクリーンのように視界を埋めるノッペリした黒い襞。
『箱舟』は消えていなかった。
私達の真上で回転していた。
その巨大さ。『箱舟』をヒトとしたら、私達二人は、塵だった。クラクラと、私は倒れそうだった。
「――『箱舟』が、襲ってきて。――ショーブちゃんは寝ちゃって。――ユイは、防御呪文の■■■■をかけて、『箱舟』から防御していました」
瞬時に推理した。
『箱舟』は、あの時、エルフのステージを刮ぎ取りながら接近してきた。ユイと私には逃げるすべが無かった。しかも運悪く私は薬で眠りに落ちていた。ユイは『箱舟』から二人を守るため、■■■■をかけ、当座をしのぐ策に出た。しかも、防御呪文を展開しながら、私を起こすために、覚醒呪文の■■■も同時に展開したのだ。そうは言っても『箱舟』の威力は凄まじく、おそらく呪文の防壁を破って瓦礫や暴風が直撃したはずだ。その間、ユイは身を挺して私を守ってくれていた。傷の多さはそれを物語っていた。
ユイのおかげなのだ。
「よ、よかっ、……た、です。――勇者様が還ってきてくれて、ほんとに、よかったですよ」
と言い、また無理をして笑った。ユイというキャラの特徴だったベレー帽は、無くなっていた。豊かな髪は塵まみれで、煤色に変わっていた。私は脛に軽い痛みを覚えたが、それだけで済んだのだ。
「もう、ほかの人が怪我をするのはたくさんです。見たくないです」
「ユイ、あなたって人は」
私を嬉しそうに見るユイ。目には夕方の草原のような柔らかさがあった。私はユイの顔を見ることができなかった。顔を隠すように、ユイに密着して、小さい体を抱き寄せた。ヒジリ以来だった。言語化困難な気持ちの高まりを、人間なんかに、覚えたなんて。
「――――これ以上は、限界です。――『箱舟』から離れないと。でも、ユイはもう、無理です。動けないです」
もう無理――私がゲーム内ゲームで言った「寝言」と同じ言葉。しかし、笑い飛ばすことはできなかった。たしかにユイは限界だった。自分では動けない状態だった。回復呪文を使えるのもユイだったが、力は残っていなかった。ユイには休息が必要だった。消耗したパーティーが宿屋で回復するように。私は後悔した。こんな時に備えて回復呪文を習得していればよかった。
私は格好良く戦って勝つことや、強い攻撃力を得ることばかり考えていた。勇者という看板の、表向きの安っぽい光を追っていたのだ。勇者は簡単にスマートにクリアすべきという幻想。甘すぎる考えだ。今までのステージでも躓いてばかりだったのに。
私だけの力ではクリアできないと分かった。ユイの助けが無かったら、シェリィのステージで死んでいた。私は、自分の力の無さも知らないで、勢いだけで突っ走った馬鹿だ。身の程を知らずに勇者だと盲信した。つまり、愚者なのだ。
賢くなければ勇者になれない。
「ログアウト、してください。――さっきの人が、使った手です。――ゲームを、強制脱出して、ください。――『箱舟』を回避できるかもしれません」
ユイが、弱った声で言った。
「次にログインした時、ここから、再開だったら?」
私は訊いた。
「――『箱舟』を回避する方法を、考えてくれば、いいじゃないですか。――大丈夫だよ。ショーブちゃんならできるよ。――勇者様なんだから」
「わかったわ。いくわよ。あなたも準備はいい?」
「――」
しかし、
ユイは応えなかった。
気を失っていた。
「ユイ」
私はユイの赤いポーチの中をまさぐり、腕輪のボタンを探す。ここで全滅してたまるか。ユイに救ってもらった命だ。二人とも助かるんだ。あった。三つのうちの真ん中のボタン。これでいいはずだ。私はボタンを押した。
【!!!!!このログアウトは無効です!!!!!】
ユイのカウンターには、そう表示された。もう一度押す。また同じ表示。また押す。押す。押す。だが、無効。予想外のアクシデントである。真上には『箱舟』が浮かぶ。いつまた襲撃があるか分からない。ログアウトに手間取るわけにはいかないんだ。
どういうことなんだ。他人が行うログアウトは無効なのか? それじゃあ、衰弱したユイは、ここで死ぬのを待つだけじゃないか。
その時、空気が変わった。吐き気が止まった。
私は『箱舟』を見上げた。
『箱舟』の回転が止まっていた。不快な周波の音も、やんだ。
にゅるりん。巨大なゼリーがぶつかるような音がした。
『箱舟』の底に黒い穴が開いた。
私達の真上である。
それは、降りてきた。
足が見え、黒い外套が見え、纏い付く過重な装飾が見えた。そして、顔が見えた。
髑髏のように痩せた、骨とも肉ともつかない面相。暗い眼窩は宇宙のように深かった。棘々しいツノを頭部に生やしていた。私は、それに触れれば、死ぬような気がした。忌まわしい、凄絶な、風貌だった。
魔王。




