【第2面(裏面)】 (10)
王宮で見たグラフィックではない。実体が、そこに居た。
DMが、現れた。
『箱舟』の下で、浮かんで、私達を見ていた。
深い眼窩の中心に、氷のような光が点灯した。
魔王は、少し、本当に少し、微笑した。顎の骨が動いた。枯れ木が倒れるような音。
私の前で、世界が動き、迫り来る感覚。
圧倒されるあまり、私は茫然自失だった。戦略も、逃走も、恐怖さえも無かった。自我すら飛びそうだ。
――嘘でしょ。1位になったら、こいつと対等に戦えるっていうの? 絶対嘘だわ。
そんな直感に吹き飛ばされそうだ。歯を食いしばって耐えたが、立っているだけがやっとだ。
魔王は、言った。
【勇者よ。いや、烏合の勇者共の一人よ。そなたは完全な勇者には程遠い】
声は既に攻撃にも等しかった。聞くだけでジブンの中の全部の力が脱落。私はガクガクとカラダが揺れ、這いつくばりそうだ。『箱舟』の回転を倍したような吐き気。私の喉からは、ほつれた糸のような呻きだけが出た。
わからないのは、なぜ魔王がここに? 私を殺すため? バカな。下位のプレイヤー一個に構っているほど暇ではないはず。
いや……。なんてことだ、もしかして、魔王が『ゲーム』の最後に現れるというのは勝手な思い込み!? 『ゲーム』という、同じ世界に魔王は居るのに、いま現れない保証は何処にあるというのか!?
【何の為に来たかだと? 新しいプレイヤーどもを見に来たのだ】
魔王は完全に私の心を読んで、言った。
じょ、冗談きついわよ。私達に構うほど、魔王は暇だった!
【もう一匹居たようだが、死んだか? まあよい。今は、そなたら二匹――。快い。そなたら半人前どもの恐怖、苦悶、当惑。全霊の生命の脈動こそ快い】
フフフ、魔王は噴気孔のような音を出した。笑っているようだ。
私達をどうするつもりなのか? 脂汗が滲む。沈黙に耐え切れない。私は訊いた。
「――私たちを、殺すの?」
【そなたたちを殺す気はない。
だが、気分が変わって『やはり殺すか』ということはあるやもしれぬ】
読めない。魔王は何を考えているのか読めない。この者の思考は私より遥かに深くて広い。博物学を極めた老魔術師の前に、赤子が裸で出たも同然。私の思考は全て読まれている――いや、『虫の思考など読むに値しない』と思われている。
ジブンの動作が完全に封じられた感。あるいは、既に殺されたが、魔王の力によってゾンビのように蘇生させられた感。今は生きているが、次の瞬間は死んでいるかもしれない。その事実を正面から眺めている恐怖。苦痛という、対峙。
【たとえば、こうしてな】
「ウ」
鳥のゲップのような声がした。
見た。
蜘蛛の足のような鉤爪がユイの胸に貫通していた。
「……ユ」
ユイは変わらなかった。いつもみたいに、まどろんだような目と、半開きの口をしていた。
顔面硬直していた。
何が起こったか、自覚もなかっただろう。瞬時に、死んでいた。天井から吊られたモビールのように、ふわと揺れて、倒れた。
ユイが死んだのは一瞬で分かった。刺さった時すでに、顔から生命感が消えていた。
一個の生命体がまるでプラモデルと化す瞬間。それを見た衝撃は、いやまさに今だが、想像以上の吐き気だった。
ばたりと倒れたユイは、やや遅れて、生命の名残の痙攣を示した。だが、もうユイの生命は、ここには宿っていない。――死は、簡単すぎるな。
ザク、ザク、ザク、ザク、耳慣れない衣擦れの音がした。鋭利な鉤爪が、枯れ枝か脳血管のように分岐し、ユイを刻んでいた。手首、肉片、髪の束。ボト、ボト、ボト。靴を履いたままの足のつま先が、くちゃっ、私の靴にぶつかった。切るのに失敗したソーセージの先っちょのようだ……。私は息を止めた。思考を遮断した。ユイから目をそむけた。
ユイを攻撃した鉤爪を辿ると、『箱舟』の穴から出ていた。穴には百本くらいの鉤爪が、いつでも飛んで来られるように、もぞもぞ蠢いていた。あれが私にも飛んで来るかもしれない。
私は気色悪いほど冷徹に状況分析していた。
恐さの感覚は既に麻痺していた。慌てたり叫んだりもしない。ひたすら、ざらざらした時間。もし魂というものがあればだが、私は魂がおろしがねで削られるような時間を体験している。生命に危機の圧力が掛かると自動に発動するモード。危機に陥った生物に普遍的な、「必死」という渦の中央。
魔王が黒い深淵の目で私を見た。
ああ。
この時、私は、現実世界そのものと言ってよい震えを感じた。
かつてない凶悪な存在が立ちはだかる事実。まるで、有害で悪臭のする粗大ゴミの山脈が、今しも私に向かって崩れ掛かろうとしている。
ここに居ることは、確定的な死。
存在か不存在か。0か1か。デッドオアアライブを選ぶだけのモード。一番簡単な二択。だから、どんな弱い生物すら、大胆に行動し、しぶとく反抗もする。勇気なんかじゃない。生物なんて、いざとなったら、0か1か、どちらかに流れる電流。殺伐とした心情が、私を塗り固める。
この場から逃れることしか考えられなかった。私は、世界という「生命のゲーム盤」で次々に消えては補充される、ノッペラボーな粒子であった。――避ケネバナラナイ・ドウニカシテ・魔王ノ攻撃ヲ・避ケヨ・避ケヨ・避ケヨ。――――――私ハ今、ユイが倒れたことヲ、悲しんデすらいない。紙に「悲しい」と書いたような薄い実感。悲しくなきゃいけないのに。
クソむかついた。
そこにユイが倒れているのに。
―― 一体、 ワタシ は、 誰 なのだ ?
血液が腐るような、敗北感を覚えた。それは、現実世界での生活と同じ、醜悪な苛立ちだった。
負けしか存在しないゲーム。現実世界に居るかぎり、生物であるかぎり、膝を屈する壁。現実世界はいつも私に言うんだ。「現実世界に居たくなければ、いつでも消えていいよぉ?」って。
――うるせェんだよッ、バカヤロォ!!
ワタシは、そこに横たわるユイを見ながら、
懸命に ログアウトを試みた 。なんて卑怯で、せせこましい生物。
意識がプツリと断線する音がした。




