プロローグ リク編2
「私の名は、クオシス=アレイ。いずれ、この世界を征服する闇の覇者だ」
ーークオシス=アレイ?
聞き覚えのある名前に、少女は眉を寄せる。だが、ありえない。その存在がこんなところにいるはずがない。だが、実際に己をクオシス=アレイと名乗る者が現れた。これがなにを意味しているのか、少女は理解してしまった。
これは一体、何の因果なのだろう。この家が英雄に連なる家だから、この男はここに来たのだろうか。少女は自分が『リク』と呼ばれた理由がわかった。
「貴様、本気でその名を名乗っているのか? もし、冗談だとしたら、その名を名乗るのはやめておいた方がいい」
「私はいつでも本気だよ。これが、私の本当の名さ。それにしてもつまらないね。キミは『ソラ』のように感情的になったりしない」
『ソラ』の名も出し、そう言うということは、ここに来る前にこの男は『ソラ』と呼ぶ別の誰かに会っている。
誰かはわからないが、きっと今の少女と似たような状況になったのであろうことは、容易に想像がつく。
「私をそこらへんの者と一緒にしないでほしい。だが、心の中は貴様に対する憎悪で燃えたぎっている。貴様を殺したくて殺したくて仕方がない」
その言葉を聞くと、男は嬉しそうに笑った。
「そうかい。それは嬉しいね。憎悪はすべての始まりだ」
心の底から燃えたぎる憎悪を、なんとか理性で押しとどめる。表面上からはわからないが、少女の心は殺意で燃え上がっていた。
過去にたくさんの人間が殺し合う戦場にいたことはあったが、特定の相手をこんなにも殺したいと思ったのは、これが初めてかもしれない。
「私の手で死んでくれないか? クオシス=アレイ」
英雄に連なる家の者として、『クオシス=アレイ』と名乗る者は始末しなければならない。世界に芽吹く不穏の芽は潰さなくては。それが、この家に生まれた者が背負う役目なのだから。
だが、男は首を横に振った。
「ここでキミとやり合うつもりはないよ。そうだね。始まりの島で待っているよ。そこまで来てくれたら、キミの相手をしてあげる」
この世界の人間が始まりの島と呼ぶ《聖域》。超巨大な大陸の中心に存在する湖に浮かぶ島だ。そこは《聖域》とされ、何人たりもと立ち入ってはならないとされている。そこにはある人物が封印されていると言い伝えられているからだ。
古文書に描かれている災厄のことを知る者は、封印されている者を目覚めさせるのを恐れ、絶対に近寄ることはない。封印を解いてしまったが最後、世界が終わると信じているからだ。
この世界の人間なら、子供ですら近づかない場所。この男は、そこで待っていると言う。
これで、少女の中ですべてがつながった。
「始まりの島まで行けばいいのだな? そこで、私はお前を殺せるのだな? いいだろう。だったら、そこまで行ってやる」
男は哄笑した。
「楽しみだな。昔のようにキミは私を楽しませてくれるかな? じゃあ、始まりの島で待っているよ」
そして、男は消え去った。
静寂が辺りを支配し、男の気配が完全になくなったのを確認してから、少女は静かに父に歩み寄る。力なくぐったりとうつ伏せに倒れる父の身体の下には、大量の血溜まりができあがっていた。一目でわかる。この量では、どう足掻いても助からない。それを踏まないように気をつけ、父の身体を仰向けにする。だらん、と父は少女のなすがままに動いた。
驚愕に彩られた瞳。見開いている。きっと、驚いた瞬間に死んだのだろう。もしかしたら、相手を認識する前に命を奪われたのかもしれない。それくらい、一瞬の出来事だった。
少女は手を伸ばし、その大きく見開かれた目を閉じさせた。脈や鼓動を確認しなくてもわかる。
……父は既に死んでいる。
もう手遅れで、命は戻ってこない。
少女は父の頬に触れた。まだわずかに温もりが残っている。本当に先ほどまで生きていたのだ。いつもどおりに言葉を交わし、これからの家のあり方について語り合っていた最中の出来事だった。
「お父さん……」
名前を呼んでも答えてくれないことはわかっている。それでも少女は父を呼んだ。少女にとって、父親の存在はとても大きかった。いずれは父の後を継ぎ、この家を守るために立派に働くつもりだったのに。
「少しだけ……ほんの少しだけ寄り道することをお許しください」
その時、こんこんとドアがノックされた。
「お姉ちゃん。なんかすごい気配がしたんだけど……」
義妹の声だ。気配に敏感な義妹がいち早く駆けつけてきたのだろう。だが、もう遅い。父は殺され、男は去った。
少女の返事を待つことなく、がちゃりとドアが開けられ、義妹は部屋の中を覗き込んだ。部屋中に立ち込める血の匂いに気づいたのか、うっと顔を歪める。
「お姉ちゃん、どうしたの?」
月明かりが差し込む中、気配を辿って義妹は少女の元へやって来て、父の変わり果てた姿に言葉を失った。はっとした表情で口元を押さえる。
「みんなを呼んで。お父さんの葬儀をするよ」
義妹は状況を呑み込めていないらしいが、それでも少女の言うことを聞いて、部屋から出て行った。
それから少女はみんなの前で父親の遺体を焼いた。骨の欠片、髪の毛一本残すことなく。
少女の一族では血族が亡くなった場合、骨も髪の毛も残すことなく焼かれなければならない。そういう決まりなのだ。だから、この家の敷地内にあるお墓には、誰も埋葬されてはいない。ただ毎日花が飾られているだけの空っぽのお墓だ。
そして少女は、兄と弟にすべてを話し、しばらくの間家を任せたいと頼んだ。兄は最初は渋っていたが、少女の決意が固いことを知ると、最終的には「わかった」と言ってくれた。
「必ず帰って来い。それまで、俺たちがこの家を守るから」
「姉上。姉上が戻るべき家はここです。必ず帰ってきてください。待っていますから」
兄と弟の言葉に、少女は力強く頷く。
「私は仇を討ちに行く。親の仇が討てずして、ヴェアール家の当主は務まらない」
門の前まで見送りに来た兄や弟、使用人たちにそう言い残し、少女は屋敷の門をくぐった。どうしてもついて行くと言い張った義妹を連れて。
仇を討つまで帰らないと。だが、絶対に帰ってくるのだと心に決めて。
神聖歴938年 2月 24日のことである。




