ヴィアンド
CIAのM。彼の正体を知る人物は、ルビー・チューズデイと同じく圧倒的に少ない。彼はCIAでも最重要機密の部署に勤め、決して姿を見せることのないケースオフィサーとして活躍している。大統領は彼の手腕を買っているとの話だが、しかし大統領すら彼の正体を知らないというのがCIAではもっぱらの噂であった。それどころか、Mという人物はそもそも存在せず、DARPAが作り上げた人工知能なのではないか? という眉唾物の噂までされるほどだ。
しかし、Mという人物は確かに存在した。それを証明する人物の一人が、MI6――あるいは、モサドのエージェント、イーライ・ブラッドレイだった。だが、そのブラッドレイも、もうこの世にはいない……。
そんなCIAの懐刀、Mが好むレストランがワシントンD.C.はデュポン・サークルの近くにある。どちらかと言えばアダムズモーガン区よりにあるそのレストランは、繁華街の中心から少し離れた場所にひっそりと立っていた。森のような庭を抜けた先にようやく入り口があり、表に出されたチョークボードには『本日貸し切り』と書かれていた。
しかしMは、決してそこをディナーに使ったりはしない。彼がこの店を実際に訪れたことは一度もなく、シェフや支配人でさえ、Mのことは知らなかった。
その日、貸し切られたレストランに招待されたのは、一人の研究者だった。ヴァシリー・ルドニコフ。レニングラード大学でマイクロ波の研究を行っていた男で、現在は大学から離れて、民間軍事企業主導の研究所で主任研究員となっていた。しかし、その企業が書面上だけの企業であることは、CIAのほうで調べがついていた。
ルドニコフは、銃を持った男二人に取り押さえられ、そのまま席につかされた。机上にはキャンドルがほのかな灯りをともし、真っ白いテーブルクロスを薄橙色に染めている。
そして机上には、ノートパソコンが一台置いてあった。スクリーンセーバーの起動した画面では、ワシと盾をかたどったCIAの紋章がクルクルと回っている。
「やあ」と、突然パソコンのスピーカーから捻じ曲げられた声が響いた。「はじめまして、ルドニコフ博士。僕のことはご存じかな?」
「……あなたが、ミスタ・ブラッドレイの言っていたCIAのM……?」
「公明なるルドニコフ博士にも覚えていただいているとは。これはこれは、光栄ですね。まあまあ、おくつろぎいただいで。まずは食前酒にシャンパンでもいかがです?」
「なんのつもりだ……」
「別になんの意図もありませんよ。ただ長い間拘束されて、さぞお疲れでしょうと思って。ウェイター、シャンパンを彼に出してくれ」
ただいま、とそばに控えていたボーイが言って、グラスとシャンパンが出てきた。コルクを引き抜いたとき、銃声のような音が響いた。ルドニコフは動揺していた。
「まあまあ、そう肩肘を張らずに。食事を楽しんでくださいよ。ここの料理は最高でね、せっかくなので博士の故郷であるロシア料理を作ってもらっているんです。どうぞ、楽しんで」
Mはそう言って、微笑んだように思われた。もちろん姿は見えない。彼のほうからは、パソコンのカメラ越しにルドニコフの姿が見えていることだろう。ルドニコフは、まったく笑っていなかった。
「……私にこんな扱いをして、どうするつもりだ。殺すつもりか」
「そんな滅相もない。僕は人殺しが一番苦手なんです。見てるだけで、ほんと……イヤになっちゃうぐらい」
「じゃあ、何が目的だ。私は、研究への強力なら惜しまないと言ったはずだ。命さえ保障するなら」
「自分の研究と命さえ無事なら、悪魔に魂を売ろうが勝手、ですか……。いいでしょう、本題に入りましょうか。
ドクター・ルドニコフ、僕が聞きたいのはただ一点だけです。あなたは、民間軍事企業エリツィン社の顧問研究員でしたね? 実はそのエリツィン社の親会社についてお聞きしたいのです」
「親会社……? 持ち株会社のことか?」
「ええ。いくら調べても出てこないんですよ。まるでトカゲの尻尾切り。まったく全容が見えてこないんです。だから、教えてくれませんかね? あなたの雇い主である企業――シンジケートとは何です? 僕の調べでは、エリツィンはその親会社と何度かやりとりをしているはずなんですがね?」
Mの問い。
その言葉に、一瞬沈黙が訪れた。
「おっ、親会社のことなど知らない! 私はあくまで研究員だ! それだけだ!」
「それじゃ困るんです、ドクター。僕もシンジケートの関係者を何人かリストアップしたんですが、どいつもこいつも勝手に自殺するなり、何も知らないと抜かすなりして死んでいきましてね。……命が惜しいんでしょう、ドクター?」
「知らないものは知らない! 協力したくても、答えようがないんだ!」
「残念ですねぇ。僕にとってそれは、協力する意志が無いことと同義なんですよ。……ミラー君、彼にメインディッシュを持ってきてやってくれ」
すると、後ろに控えていた銃を構えた男の内の一人――ミラーが厨房のほうへと歩き出した。
「な、何をするつもりだ! 私は何も知らない! 信じてくれ!」
「まだ吐く気になりませんか。……では、質問を変えましょう。ドクター、シンジケートは『ハートブレイカー』を用いて、何をするつもりだったんですか? モサドの狙いは?」
「モサドの狙いは一つだ! 彼らに敵対するイスラーム過激派の殲滅と、欧米諸国をリードする兵器が必要だった。シンジケートは、それに協力した! 私が知っているのはそこまでだ!」
「まだご存知でしょう? 彼らはモサドを支援して何をするつもりだったんです? 彼らの目的は? 欧米の敵を作り出して、戦争産業に火をつける? そうですか?」
「し、知らない!」
「答えてもらわなきゃ困るんですよ」
そのとき、厨房から戻ってきたミラーが、フタのかぶせられた銀食器を運んできた。メインディッシュはルドニコフの前に置かれ、そしてミラーがフタを開けた。
そこにあったのは、首だけになったネイサン・レノックスの姿だった。防腐剤をたっぷり付けられた生首が、美しい銀細工の施された皿の上に乗っている。ルドニコフは、思わず目を背けた。
「目を背けるんじゃない! 答えろ、ルドニコフ。シンジケートの正体はなんだ。ヤツらを操っているのは、いったいどこのどいつだ!」
「わかった、答える! 答えるからもう止めてくれ! そいつの名はフライデイだ! 一度幹部の話を耳にしたことがある。ヤツらは、フライデイとその人物を呼んでいた。私が知っているのはそれだけだ!」
「なるほど、そういうことか……。いいでしょう、ドクター。いい取引ができて良かったです。ミラー君、あとはよろしく」
次の瞬間、ミラーがルドニコフの後頭部を掴んで、ディナーテーブルに思い切りぶつけた。それからミラーは上着のポケットから麻酔の入った注射器を取り出すと、針をルドニコフの腕に挿し、薬剤を注入した。
その様子を、Mは退屈そうに見ていた。
スーツ姿の軍人二人が、倒れたルドニコフを抱え、レストランを出て行く。ウェイターは何も見なかったように厨房の片隅に縮こまっていた。
結局テーブルには、Mとレノックスだけが残された。頭だけになったMI6の男と、声だけのCIAの男。
「こうして会うのも香港以来か、レノックス。時が流れるのは哀しいものだね。君はあの頃から変わってなかったな。……僕も変わっていないか。レノックス、悲しいが、僕らはおたがい闇の中で孤独に生きていくしかなかったんだよ。これまでも、このからも。深い闇の中に閉じこもることしかできない。そういう人生を選んだんだから」




