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数日後、ロンドンはケンジントンにあるブリストル・カーズのショウルーム。こじんまりとした店舗から、その日一台のクラシック・スポーツカーが飛び出した。ブリストル・ブレニム。かつて航空機を作っていたブリストル社の作る自動車は、昔気質で気取らない、大衆に迎合しない美しさがあった。
そんなブレニムに乗った一人の女性は、そのままソーホーへと走り、ある喫茶店の前で停車した。
そこは喫茶店というよりは、昼営業中のパブというべきだった。落ち着いた雰囲気の洒落た店で、カウンター奥にはサイフォンやコーヒーの水出し機、それからウィスキィの壜、ギネスやハイネケンといったビールサーバーが並んでいた。ワイシャツにブラウンシュガーのエプロン姿のマスターが、小声で「いらっしゃい」とつぶやき、客に目線を送る。
そんなカフェで、その女性――ルビー・チューズデイ――は、待ち合わせをしていた。カウンターに座るゴスメイクの女と。
チューズデイはその女の隣に座り、エスプレッソのドッピオを注文した。店のメニューは、一ページ目に紅茶のラインナップという英国気質だが、チューズデイは三ページ目から続くコーヒーを選んだ。紅茶など飲んでいるから、英国は衰退したのである。
しかし隣に座る女は、カモミールティーを嗜んでいた。とてもじゃないが、ゴスメイクの厳つい女が飲むようなものには見えない。女はキツい香水のにおいとともに、ハーブの香りを漂わせていた。
「待たせたわね、ゾーイ」
チューズデイは言って、エスプレッソを受け取る。
「予想よりはずいぶん早く戻って来たみたいだが。アンタが生きてここに戻ってきたってことは、作戦は成功したんだな」
「まあ、いろいろ大変だったけれど。そっちはどう? あなた、Mに加担したせいでいろいろ言われてないの?」
「おあいにくさま。いまの秘密諜報部はひどい有様でね。レノックスがモサドとの二重スパイであると分かってから、局内で大幅な人員再編成が行われている。私はむしろ良い判断をしたとして、研究開発課課長のポストは維持。問題はない。むしろ問題は……」
「わかってるわよ。約束を果たしにきたわ」
言って、チューズデイは上着のポケットからクルマのキーを取り出した。そしてそれをカウンターテーブルに置くと、デイジー・ゾーイ・アンダーソンのほうへやる。
「ロータスじゃないけど、それで我慢してね。たぶんエヴォーラより高いと思うし」
「ブリストルって、アンタまた妙な趣味だな。懐古趣味にでも目覚めたか?」
「冷戦の遺物と戯れていれば、そんな気分にもなるわ」
「あっそ。まあ、もらえるもんはもらっておくわ」
ゾーイはそう言うと、札入れから十ポンド札を取り出して払い、キーを片手に外へ出て行った。
停められたブリストル・ブレニムが、航空機由来の力強いエンジン音を響かせる。窓ガラスを挟んでカフェの中にも響くような、重厚なエキゾーストノート。まもなく、闘牛が鼻を鳴らすような音を響かせて、ブレニムはロンドンの街に消えていった。
ルビー・チューズデイは、その様子を一杯のエスプレッソとともに見送った。
ロンドンは四月である。霧は相変わらすこの街を覆い隠さんとしているが、しかしすべてを煙にまいてしまえるほど、この街は儚いものではなかった。




