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第九十九話 三文字目

 しかし、半平太は血の気の引いた顔で不敵に笑みを浮かべ、咆哮した。

「まだまだーーっ!」

その声は、もはや人間のものとは思えぬほどの気迫を孕んでいた。広間に居並ぶ検使や役人たちは、思わず後ずさり、息を呑んだ。誰もが、目の前で繰り広げられているこの光景から、目を逸らしたいという衝動に駆られながら、同時に、視線を引き剥がすこともできずにいた。

半平太の周囲には、すでに広がった血溜まりが、行灯の灯りを鈍く照り返していた。むせ返るほどの血の臭いが、狭い広間の空気を、重く、粘つくものへと変えていく。畳は、もはやその色を失い、ただ一面、赤黒く染まっていた。だれもが呼吸を浅くし、その臭いを、できるだけ肺の奥まで入れまいとしていた。

修羅の如き気迫で、半平太はさらに三文字目の刃を横に引く。その動作に、震えはあった。だが、その震えは、恐怖によるものではなく、すでに限界を超えた肉体が発する、生理的な痙攣に近いものであった。半平太の額からは、脂汗が滝のように流れ落ち、白装束の襟元を、じっとりと濡らしていた。全身の筋肉が、痛みに耐えかね、幾度も、大きく波打った。

見届け役の若い役人の一人は、その凄惨な光景に耐えかね、口元を袖で覆いながら、静かに嘔吐した。だが、誰もその音を咎める者はいなかった。皆が、それぞれの方法で、この地獄のような光景に、必死に耐えていたのである。

半平太は震える手で刃を握り直した。その脳裏に浮かんだのは、もはや主君の座す城でも、天下国家の行く末でもなかった。

(富。……おんしの顔が、見える)

半平太の心の奥底に、鏡川のほとりで、三つ指をついたあの若き日の富子の姿が、鮮やかに蘇った。嫁いできたばかりの、あの日の富子の声が、耳の奥で静かに響く。「この富にお任せくださいませ」――その約束を、富子は、生涯、一度たりとも違えることはなかった。

(富。おんしが板間で耐えていたであろう寒さも、おんしが夜を徹して縫うてくれたこの死に装束も、わしはすべて、この身に刻んで逝く)

その脳裏に、これまでの人生のすべてが、次から次へと、走馬灯のように駆け巡っていった。婚礼の夜、白梅の枝を差し出した、あの若かった自分。蔵の暗がりで、下手な義太夫を唸っていた、あの穏やかな夜々。薊の花の絵を、無造作に差し出した、あの午後。地震で崩れた家の中、気丈に微笑んだ富子の顔。

(富。……わしは、本当は、ここで、道場を開きながら、おんしと、静かに、暮らしていきとうござった。これからの人生、おんしと共に、義太夫を唸り、田畑を耕し、ただ、それだけで、良かったのだ)

その願いは、もはや、決して叶うことのない、遠い夢であった。だが、半平太は、その夢を、この最期の瞬間に、はっきりと、胸に描いた。

(富。この三文字目は、殿への言葉ではない。おんしへの、たった一つの「誠」だ。……富。もし、この先、雷の音を、聞くことがあれば)

半平太の唇が、誰にも聞こえぬほどの、微かな声で、動いた。

(その音を、わしの、あの下手な義太夫だと、思うてくれ。……おんしが、いつも、笑いを堪えながら、聞いてくれておった、あの唸り声だと。……そして、どうか、笑ってくれ。おんしの、あの、鏡川の風のような、優しい笑い声で)

その願いを、最後の力を振り絞って、心に刻みつけると、半平太は、震える手に、渾身の力を込めた。

三文字目が切り裂かれた瞬間、半平太の臓腑は完全にその形を失い、溢れ出した赤き血が、白装束を無残に、しかし神々しく染め上げた。その血の量は、もはや人体に残っていたはずのすべてを、この場に注ぎ尽くすかのようであった。半平太の顔からは、生きた人間の色が、急速に失われていく。それでも、その双眸だけは、最後まで、何かを見据えるように、宙の一点を捉え続けていた。

半平太はそのまま力尽き、前へと崩れ落ちる。その最後の意識の中で、半平太が見ていたのは、鏡川の水面に揺れる白梅と、その傍らで、優しく笑う、富子の姿だけであった。

あまりに前のめりに倒れたため、介錯人は首を落とすことができなかった。介錯人自身、目の前で繰り広げられたあまりの凄惨さに、太刀を握る手が、なかなか定まらなかったのである。検使の命により、横から心臓を深く突き刺すことで、ようやくその命の炎は消えた。

広間には、しばらくの間、誰一人として言葉を発する者がなかった。ただ、雨音と、半平太の亡骸から滴り落ちる血の音だけが、静寂の中に、いつまでも響き続けていた。

「……お見事。しかと見届けたぞ……」

検使は溢れ出す涙を拭おうともせず、その場に立ち尽くしていた。その声は、これまで幾多の処刑を見届けてきたはずの男とは思えぬほど、掠れ、震えていた。武士の世の終わりに刻まれた、あまりにも凄まじい最期であった。

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