第百話 絹の縄の行方
文久三年、春の京都。あの日、柳川左門という名の「絹の縄」を首にかけられた瞬間に、武市半平太の運命は決していたのかもしれない。
武市の死。それは単なる一人の指導者の死ではなかった。彼が心血を注ぎ、土佐の山々から集まった熱き魂の結晶である「土佐勤王党」という巨大な夢が、音を立てて崩れ去った瞬間であった。
半平太の死後、土佐は危うい岐路に立たされた。勤王党という組織的な支柱を失った土佐藩は、しばらくの間、これといった旗幟を示せぬまま、時代の奔流に取り残されかけていたのである。長州や薩摩が急速に力をつけ、討幕へと突き進んでいく中、土佐は容堂の意向のもと、幕府との協調路線を模索し続けていた。もし半平太が生きていれば、あるいはもっと早く土佐が武力討幕へと舵を切っていたかもしれない。だが同時に、半平太という「熱」を失ったことで、藩内は一時、方向感を見失い、他藩からは「土佐は、もはや過去の勢い」とさえ囁かれる時期もあった。
残された同志たちは、散り散りになった。
「武市先生のやり方では、もはや土佐は変わらん……」
中岡慎太郎をはじめとする一部の過激な志士たちは、もはや主君への忠義という呪縛に縛られることを拒み、藩を見限って脱藩した。彼らは野に下り、浪士となって、より苛烈な討幕の炎へと身を投じていく。
しかし、歴史の皮肉はここから始まる。後に中岡の仲介により、乾退助と西郷隆盛の間で「薩土討幕の密約」が結ばれる。半平太が獄中で最期を遂げた後、皮肉にも彼が夢見た「武力による討幕」の舵を切ったのは、彼を弾圧したはずの土佐藩そのものであった。
退助は、獄に繋がれていた勤王党の生き残りたちを釈放し、彼らを中核に据えて軍を再編した。戊辰の戦場、官軍の旗を掲げて土佐藩兵を率い、先陣を切って戦ったのは、かつて半平太と志を同じくした者たちであった。彼らの胸には、かつて半平太が説いた「一藩勤王」の志が、姿を変えながらも、確かに息づいていたのである。
一方、半平太を、そして以蔵を、その冷徹な手腕で葬り去った後藤象二郎は、後に坂本龍馬と邂逅する。かつて敵対した二人が手を結び、成し遂げた「大政奉還」。半平太の死から数年後、日本は彼が描いた絵図とは異なる形ではあるが、確実に「新しい朝」を迎えた。
後の世、武市半平太という男の評価は、長らく定まらなかった。一部の史家は、彼を「暗殺の首謀者」として断じ、その名を貶め続けた。だが、時代が下るにつれ、半平太が命を賭して守り抜こうとした「志」の種が、乾退助をはじめとする生き残りの同志たちの手によって、確かに次代へと引き継がれ、明治維新という大きな結実に至ったことが、次第に明らかになっていった。
半平太がいなければ、土佐は郷士の熱を一つに束ねることも、勤王という旗印のもとに藩論を動かすこともできなかったであろう。彼が独りで背負い、独りで死んでいったあの重さこそが、土佐という藩を、時代に取り残される寸前のところで、かろうじて繋ぎ止めていたのである。それは、彼と直接刃を交えたことのない後世の者たちにこそ、正しく理解されるべき功績であった。
その功績を、誰よりも複雑な思いで見つめていたのは、他ならぬ、半平太を死に追いやった、山内容堂その人であった。
明治維新が成り、時代が大きく移り変わってからも、容堂の心には、一つの澱が、消えることなく、残り続けていた。表向きは、藩主として、あるいは新政府の要人として、堂々と振る舞い続けていた容堂であったが、独り、酒杯を傾ける夜には、その仮面が、しばしば、崩れ落ちることがあった。
「……武市」
誰もいない部屋で、容堂は、時折、そう、独り言のように、その名を、口にした。
「おんしを、殺したのは、余であった。……あの時は、それが、正しき道だと、信じておった。じゃが」
その言葉の先を、容堂は、なかなか、続けることができなかった。維新の後、土佐藩が、そして日本という国が、辿ってきた道筋を、容堂は、誰よりも近くで、見届けてきた。乾退助が、瑞山の育てた同志たちを率いて、戊辰の戦場を駆け抜けたこと。武市瑞山という男の「志」が、姿を変えながらも、確かに、次の時代へと、引き継がれていったこと。そのすべてを、容堂は、複雑な思いで、見つめ続けてきたのである。
(あの男を、生かしておけば……。あるいは、もっと、違う道が、あったのやもしれぬ)
その悔恨は、容堂の中で、年を追うごとに、静かに、しかし確実に、その重みを増していった。
「……許せ、武市」
酒に酔うと、容堂の口から、その一言が、幾度となく、漏れるようになった。それは、誰に聞かせるためのものでもない、容堂自身の、最も深いところから溢れ出る、静かな懺悔であった。
かつて、東洋を殺されたことへの憎悪から、瑞山を追い詰め、その死を、静かに見届けた容堂。だが、その容堂もまた、自分が下した決断の重さから、生涯、逃れることはできなかったのである。




