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第九十七話 最後の晴れ着

 半平太が獄舎の冷たい板間に座し、明日をも知れぬ日々を送っていた頃、武市邸の奥まった一室では、静かに針を運ぶ音が響いていた。

妻、富子は、最愛の夫に贈る「最後の晴れ着」を縫っていた。一点の汚れもない真っ白な麻の布。一針、また一針と糸を通すごとに、富子は祈りを込めた。

(半平太様、どうか、最後まであなた様らしく。土佐の武士としての誇りを、その身に纏ってくださいませ)

だが、その一針一針を進めるたび、富子の胸の内では、もう一つの声が、絶えず囁いていた。

(これは、死に装束だ。私は今、夫の最期の衣を、この手で仕立てている)

その事実に、富子の指先が、幾度となく止まりそうになった。それでも富子は、決して針を止めなかった。もし今、自分の心が挫ければ、それは獄中の半平太に、必ず伝わってしまう。そんな気がしてならなかったのである。

富子は、これまで誰の前でも、涙を見せたことがなかった。地震で家を失った時も、百二十人の門弟の世話に明け暮れた時も、京での血生臭い噂を耳にした時も、富子はいつも、静かに、凛として振る舞い続けてきた。だが、それは決して、富子が悲しみを感じていなかったからではない。

(私が涙を見せれば、皆が不安になる。私が気丈でいなければ、この家は保てぬ)

その一心で、富子は、自分の弱さを、誰にも気取らせぬよう、深く胸の内に押し込め続けてきたのである。それは、半平太が獄中で見せていた、あの隠された震えと、驚くほどよく似た「やせ我慢」であった。夫婦は、互いにそのことを知らぬまま、それぞれの場所で、同じように、己の弱さと戦い続けていたのである。

縫い目に落ちる涙を、富子は一つひとつ、指先で拭った。だが、拭っても拭っても、涙は後から後から、布の上に滴り落ちた。富子は、その涙の跡が布に染みとして残らぬよう、丁寧に、丁寧に、水気を吸い取った。夫に届ける装束に、自分の弱さの跡を残すわけにはいかない。それが、富子なりの、最後の意地であった。

「……半平太様。あなた様が、獄中でどれほどの恐ろしさと戦っておいでか、私には計り知れませぬ。……ですが、私も、この家で、一人、戦っております。あなた様に恥じぬよう」

誰もいない部屋で、富子は、そう小さく呟いた。その声は、震えていた。だが、その震えを、富子は誰にも見せることなく、静かに夜を徹して、死に装束を仕上げたのである。それは、言葉を交わすことのできない夫に対する、彼女なりの命を懸けた「誠」の証であった。

この装束が獄中の半平太のもとに届けられたとき、彼はその柔らかな布肌に触れ、富子の手の温もりと、微かな残り香を感じ取った。半平太にとってそれは、何よりの励ましであった。不衛生な極寒の房内で、彼は確信していた。

(富……。おんしも今、わしと同じ覚悟のなかにいるのだな)

半平太は、その布のどこにも涙の染みを見つけることができなかった。だからこそ、半平太は、富子が涙一つ流すことなく、ただ気丈にこの装束を仕上げたのだと、そう信じていた。富子が、その涙の跡を、必死に隠し通していたことを、半平太は最後まで、知る由もなかったのである。

半平太は富子に指示し、留守宅を訪問する牢番たちに酒や肴を振る舞わせるなど、細やかな気遣いを続けていた。その高潔な人格に、当初は厳しかった牢番たちも心服し、いつしか酒やかまぼこ、季節の花々を競うように差し入れるようになっていた。

自分が決して一人ではないこと。自分の痛みを知り、それを我がこととして引き受けてくれる魂が、あの鏡川のほとりの家に確かに存在すること。その確信が、獄吏の執拗な尋問を撥ね退け、以蔵の自白という絶望に耐えるための、最後の防波堤となっていた。

富子が板間に座り続けて流した涙は、半平太の喉を潤す滴となり、富子が寒さに震えた夜は、半平太の心を包む羽織となった。夫婦が互いに離れ、言葉を交わすことのできぬ日々の中で、この装束と、板間での祈りだけが、二人を静かに繋ぎ続けていたのである。

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