第九十六話 板間の誓い
半平太が獄舎の冷たい板間に座し、明日をも知れぬ日々を送っていた頃、高知の武市邸でもまた、もうひとつの「戦い」が続いていた。
妻、富子は、夫が投獄されたその日から、家のなかで最も日当たりの悪い、冷え冷えとした板間に座るようになった。ふかふかの座布団を退け、火鉢のぬくもりを拒み、夫が獄中で耐えているであろう寒さと硬さを、自らの肌に刻み込もうとしたのである。
「富さん、そんなところにいては体を壊します。せめて畳の上へ……」
見かねた親類や下女たちが声をかけても、富子は静かに首を振るだけだった。
「いいえ。半平太様は今、暗く湿った土牢のなかで、一人で戦っておいでです。妻である私が、温かい部屋で安らぐことなど、どうしてできましょうか」
その声には、揺るぎない強さがあった。だが、夜、誰もいなくなった板間で、富子は、時折、その強さの仮面を、そっと下ろすことがあった。
(半平太様。……私は、あなた様のお側で、共に、戦いとうございます。ですが、私にできることは、これほどまでに、些細なことしか、ございませぬ)
その無力感が、富子の胸を、幾度となく、締め付けた。夫が、命を懸けて、あの獄舎で戦っている。それなのに、自分は、ただ、板間に座り、寒さを我慢することしか、できない。その落差が、富子には、時に、耐え難いものに感じられた。
だが、その無力感を、富子は、決して、誰にも見せなかった。夜が明ければ、また、いつもの、凛とした顔で、板間に座り続けた。
富子は、半平太と同じ時刻に目覚め、同じ姿勢で正座し、半平太が獄中で与えられているであろう乏しい食事と同じ分量だけを口にした。夫が搾木で脚を砕かれんばかりの痛みに耐えていると思えば、自らも脚の痺れを解くことさえ自分に禁じた。
それは、言葉を交わすことのできない夫に対する、富子なりの、命を懸けた「一途」の示し方であった。
ある夜、あまりの寒さに、富子の体が、微かに震えたことがあった。だが、その震えを、富子は、すぐに、自分の意志で、押さえ込んだ。
(この程度の寒さ。……半平太様が、獄中で耐えておいでの寒さと苦しみに比べれば、何ほどのことでもございませぬ)
そう、自らに言い聞かせながら、富子は、なおも、その板間に、座り続けた。
獄中の半平太は、ふとした瞬間に、ふわりと温かな風が吹き込むのを感じることがあった。不衛生な極寒の房内で、凍えそうになる指先を見つめながら、彼は確信していた。
(富……。おんしも、今、わしと同じ寒さのなかにいるのだな)
半平太にとって、それは恐怖ではなく、何よりの励ましであった。遠く離れた場所にいながらも、二人が、同じ寒さを、同じ痛みを、分かち合っている。その確信だけが、半平太の心を、獄中という孤独な闇の中で、静かに、しかし確かに、支え続けていたのである。




