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第九十二話 右手であったはずだ

 だが、獄中の闇はさらに深く、歪な形となって半平太に襲いかかる。別の房からは、依然として岡田以蔵のうめき声と、途切れることのない自白が響いていた。精神を病み、もはや師の「不快」を察する力さえ失った以蔵は、獄吏に乞われるまま、京都での「天誅」の数々を洗いざらい語り続けていたのである。

「……以蔵を、これ以上生かしておいては、勤王党の根が絶やされる」

慶應元年。獄内外の同志たちの間に、戦慄すべき決意が固まった。以蔵と同獄の森田金三郎が、一つの計画を提案した。それは「天祥丸」と呼ばれた毒薬を用い、以蔵を毒殺する、あるいは弟と同様に服毒自殺を促すというものであった。

かつて江戸の道場で、以蔵の純粋な瞳を慈しんだ半平太。自分のために「人斬り」となった愛弟子を、自らの「正義」を守るために消さねばならない。

「……あいつは、私の右手であったはずだ」

半平太は暗い檻の中で、独りごちた。その声は、かろうじて言葉の形を保っていたが、その奥では、半平太の指先が、格子を握りしめたまま、小さく震えていた。誰かにこの震えを見られてはならない。半平太は、その震えを、袖の中へと押し込めるようにして隠した。

毒によって自らを救おうとする師と、毒によって消されようとする弟子。かつて鏡川のほとりで志を抱いた若者たちの物語は、いまや「毒」という名の冷徹な救済によって、あまりにも虚しく、あまりにも無慈悲な終焉へと向かっていた。

格子窓から差し込む月光は、もはや希望の光ではなく、冷たい刃のように、彼らの断絶を照らし出していた。半平太は震える手で、富子への最後の手紙を書き続けた。その文字には、毒を求めた己の弱さと、弟子を殺めねばならぬ主首としての業が、滲まぬように、静かに刻まれていた。

(富。おんしにだけは、正直に書いておく。わしは今、恐ろしゅうてたまらぬ。以蔵を死なせることも、わし自身がいつか毒を仰ぐことも。……だが、この文字が震えておるのを、おんしに悟られてはならぬな。書き終えたら、もう一度清書せねば)

そう思いながらも、半平太は結局、その文字を書き直すことができなかった。震えたままの筆致を、そのまま封に収めた。それは、半平太が富子にだけ許した、ほんのわずかな弱さの吐露であった。他の誰にも見せることのできない、震える文字。それだけが、半平太にとって、獄中で唯一許された、正直な自分自身の姿であった。

獄中の空気は、毒という名の「救済」を巡って、張り詰めた糸のように緊迫していた。

「先生、もはや一刻の猶予もありません。以蔵が口を開くたびに、生き残った同志たちが捕らえられ、土佐の火が消えていきます。天祥丸を、奴の膳に……」

格子越しに囁かれる森田金三郎らの進言。だが、冷徹な組織の首領であるはずの半平太は、その提案を前にして、どうしても首を縦に振ることができなかった。

今の以蔵は、かつての「人斬り」の面影もなく、ただ獄吏の尋問に怯え、師である半平太の関与さえも包み隠さず語り続ける「裏切り者」に成り下がっている。本来ならば、大義のために即座に切り捨てるべき存在であった。

(……だが、あいつは……)

半平太の脳裏に去来するのは、京都の暗い路地で返り血を浴びながら、「先生の邪魔をする奴は、わしが消してやります」と笑った以蔵の、あまりにも純粋で、あまりにも残酷な横顔であった。あいつを化け物に変えたのは、他ならぬ自分ではないのか。その業が、半平太の心に鋭い痛みとして突き刺さっていた。

(以蔵……許せ)

半平太は、闇の中で、誰にも聞こえぬほどの小さな声で、そう呟いた。

(おんしが口を割れば、それですべてが終わる。わしの命は、すでに、殿への文をもって、差し出したものだ。それについては、もはや、何一つ、惜しむものはない。……じゃが)

半平太の胸に走ったのは、自分自身の命への執着ではなかった。もっと、切実な、別の恐れであった。

(じゃが、おんしがこれ以上語り続ければ、わし一人の首では済まぬ。まだ土佐に残っておる同志たち、そして、その者たちの家族にまで、累が及ぶことになる。……わしの命一つで購えるならば、いくらでも差し出そう。だが、罪もない者たちまで、この道連れにするわけには、いかぬのだ)

その恐れは、半平太にとって、これまでのどの恐怖よりも、重く、切実なものであった。自分一人が背負うべき業を、以蔵の口を通じて、無関係な者たちにまで広げてしまうこと。それだけは、何としても、避けねばならなかった。

(富の従兄弟たち、道場の若い門弟たち、そして……。以蔵自身の親兄弟も。皆が、わしの築いたものの、道連れになってしまうやもしれぬ)

その考えに至った瞬間、半平太は、自分がなぜ、これほどまでに、以蔵の口を封じることに執着していたのか、ようやく、はっきりと理解した。それは、生への未練でも、まして再起への野心でもなかった。ただ、自分という一人の男の罪が、これ以上、無辜の者たちを巻き込んでいくことへの、純粋な恐れであったのである。

(わしが以蔵を守ろうとするのは、あやつへの情のためだけではないのかもしれぬ。……あやつの沈黙こそが、わし以外の、多くの者たちを守る、唯一の盾になるのだ)

その自覚は、半平太の胸に、これまでとは違う種類の、静かな覚悟をもたらした。情と、他者を守るという責任。その両方が、分かちがたく絡み合ったまま、半平太の判断を形作っていた。

(富ならば、何と言うだろうか。……あの人なら、きっと「以蔵さんも、あなた様の大切なお弟子ではございませんか」と、静かに、しかしはっきりと仰るに違いない)

富子ならばどう考えるか。その問いが、半平太の胸の中で、静かな、しかし確かな指針となっていた。

「……ならん。以蔵にも親がおる。その両親に断りもなく、勝手に命を奪うことなど、人道が許さぬ」

半平太は、静かに、しかし断固として告げた。どれほど組織が危うくなろうとも、どれほど己の首が絞まろうとも、最後まで「情」を捨てきれないのが、武市半平太という男の弱さであり、そして気高さでもあった。

半平太は、以蔵の実家へと使いを送り、両親に事の次第を伝え、了解を得るよう命じた。親の許しを得てから死なせる。それが、師として、そして同じ土佐の人間として、彼が以蔵に示せる最後の、そしてあまりにも悲しい「情け」であった。

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