第九十一話 弟の死
文久三年から元治、そして慶應へ。季節が巡るたび、半平太を囲む状況は、一歩ずつ確実に、死の深淵へと引きずり込まれていった。
監察府による取り調べは苛烈を極めた。半平太の実弟・田内衛吉は、その厳しい拷問に心身を削られ、ついに恐れていた「自供」を始めてしまう。己の口から漏れ出す同志たちの名、そして兄を裏切る恐怖。衛吉はその重圧に耐えかね、更なる自白を絶つために、差し入れられた毒を仰ぎ、自ら命を絶った。
さらに、同志の島村衛吉もまた、凄惨な拷問の末に獄死する。
半平太の耳に届くのは、かつて共に夢を語った者たちの悲鳴と、死の報せばかりであった。夜ごと、隣の房から漏れ聞こえる呻き声に、半平太は幾度となく目を覚ました。搾木の軋む音、鞭の打たれる音、そして人がそれに耐えかねて漏らす、獣にも似た悲鳴。それらの音が、半平太自身の想像の中で、いつしか自分自身の身に起こる出来事として、鮮明に再生されるようになっていた。
(次は、わしの番かもしれぬ)
半平太は、土牢の中で己の痩せさらばえた手を見つめていた。剣を握り、筆を執り、これまで幾多の困難を跳ね返してきたこの手が、拷問の責め具の前では、何一つ抗う術を持たない。その事実を思うだけで、半平太の背筋には、これまで経験したことのない種類の、冷たい恐怖が這い上がってきた。
牢番が見回りに来る足音がするたび、半平太の肩は微かに強張った。だが、格子越しに姿が見えた瞬間には、半平太はいつも、涼しい顔でそれを迎えた。震える手を、袖の内側にそっと隠し、指先が見えぬよう、拳を固く握りしめる。柳川左門としての誇りが、あるいは武市半平太としての意地が、その恐怖を、決して他人の前では表に出させなかった。
だが、独房に一人きりになった夜だけは、その仮面を保つことができなかった。半平太は、闇の中で膝を抱え、小さく震える自分の体を、自分自身の腕で抱きしめるようにして、朝を待った。
「……私もまた、人の子か」
その呟きは、自嘲でもあり、同時に、これまで誰にも見せたことのない、剥き出しの弱音でもあった。彼は、上士である自分にもいずれ拷問の手が及ぶことを覚悟していた。長引く獄中生活で体力は衰え、精神は摩耗している。もし、肉体を苛む苦痛に負け、この口が「真実」を語り始めてしまったら。
(衛吉も、島村も、決して意志の弱い男ではなかった。それでも、あの責め苦の前では、口を割らざるを得なかった。……わしとて、同じ人間だ。同じ痛みを与えられれば、同じように屈するやもしれぬ)
そんな夜、半平太が縋るように思い浮かべるのは、いつも富子の顔であった。
(富。おんしは今、どのような夜を過ごしておるのだろうか。わしがこうして震えておることを、おんしは知らぬだろうな。……知られとうはない。おんしの前では、わしはいつも、揺るがぬ夫でありたいのだ)
半平太は、懐に忍ばせた富子からの古い文を、震える指先でそっと撫でた。その文字を目で追うだけで、恐怖に強張っていた半平太の肩から、わずかに力が抜けていくのを感じた。富子の筆致は、いつも通り穏やかで、力強く、まるで今、目の前で語りかけてくるかのようであった。
(おんしがいてくれるだけで、わしはまだ、人でいられる。……この恐れも、この震えも、おんしにだけは知られとうない。だが、おんしが支えてくれておることだけは、この身の底から分かっておる)
その想いを胸に、半平太は幾晩も、幾晩も、その恐怖と向き合い続けた。どうすれば、自分の「誠」を、肉体の限界が訪れる前に守り抜けるのか。どうすれば、拷問という卑劣な力に、屈することなく立ち向かえるのか。剣術で鍛えた胆力も、これまで積み上げてきた理論も、この恐怖の前では、あまりに頼りなかった。
半平太にとって、何より恐ろしいのは死ではなかった。自らの「誠」が苦痛に屈し、同志を、そして主君への大義を汚してしまうこと。その一点であった。
(言葉で耐えられるうちは、まだよい。だが、肉体が悲鳴を上げ、意識が朦朧とし始めたその時、わしの口から、何が漏れ出るか、わし自身にも分からぬ)
その恐怖への、半平太なりの唯一の答えが、毒であった。もし、自らの意志では抗いきれぬところまで追い詰められたなら、その前に、自らの手で幕を引く。それは敗北ではない。むしろ、最後の瞬間まで、自分という人間の主導権を、決して他人に明け渡さぬための、最後の抵抗であった。
彼は密かに外部の同志へ、一通の依頼を出した。
「私にも、毒を調達してほしい」
それは、最後まで「武士」であり続けるための、彼が選んだ最後の防衛線であった。この依頼を書き記す半平太の手は、これまでのどの手紙よりも、静かに、そして深く震えていた。だがその震えの奥に、半平太はもう一度、富子の文字を思い浮かべ、静かに息を整えたのである。




