第九十話 武士の情けなど
だが、容堂の命を受けた「冷酷な目」は、すでに退助たちの温情を捉えていた。
「……甘い。乾も、他の連中も、武市という毒に当てられたか」
高知城の奥深く、容堂は報告を受けて冷笑した。半平太が獄中で「聖人」のように振る舞い、役人たちの同情を買っていることは、容堂にとって最も忌むべき事態であった。容堂は即座に、乾退助を含む同情的な監視役たちを更迭。代わりに、血も涙もない、冷徹な法家たちを獄舎へと送り込んだ。
「これより先、武市への手紙は一切禁ずる。……乾、おんしは下がれ。武士の情けなど、今の土佐には不用よ」
退助は悔しさに唇を噛みながら、半平太の牢を後にした。最後に交わした視線。半平太はすべてを悟ったように、静かに微笑んで退助を見送った。
「乾さん。……世話になった。おんしは、これからの土佐を頼むぜよ」
その一言に、半平太のすべての想いが込められていた。自分はもうこの先、生きて土佐の未来を見ることは叶わないかもしれない。ならばせめて、この情け深い若者に、自分の想いのすべてを託したい。半平太は、その願いを、短い言葉の中に凝縮させていた。
退助は、何かを言いかけたが、言葉にならず、ただ深く頭を下げると、足早に獄舎を後にした。その背中を見送りながら、半平太の胸には、感謝と、そして一抹の寂しさが同時に去来していた。
(乾殿。おんしのような男に、これ以上わしのために罪を重ねさせるわけにはいかぬ。……おんしは、これからの土佐で、生きねばならぬ人間なのだから)
退助が去った後の獄舎には、以前にも増して重く、冷たい沈黙が立ち込めた。差し入れられる筆はなくなり、富子への手紙は途絶えた。半平太の周囲を固めたのは、もはや言葉を解さぬ「拷問の徒」のみ。
一方、別の房からは、搾木の軋む音と共に、精神を病んだ以蔵のうめき声が、夜を徹して響き渡るようになっていた。その声を聞くたび、半平太は自分の胸が、刃物で抉られるような痛みを覚えた。
(以蔵……。おんしのその声を、わしは聞かぬふりをすることさえできぬ。おんしを人斬りに変えたのは、他の誰でもない、このわしだというに)
半平太が命を懸けて守ろうとした「忠義」という名の城壁は、今や身内からの自白と、主君の冷酷な包囲網によって、根底から崩れ去ろうとしていた。
慶応元年五月。独房のなか、半平太は一枚の紙を前に、震える指先で筆を握っていた。獄中の闇が深まるにつれ、彼の胸を刺していたのは、岡田以蔵の裏切り以上に、自らを信じて死んでいった同志たちへの、押し潰されるような「申し訳なさ」であった。
特に、清岡道之助らの非業の死は、半平太の魂に深い傷を刻んでいた。かつて、半平太を救おうと野根山で挙兵した清岡ら二十三士。彼らは半平太の無実を信じ、獄中の師を救い出すために、命を懸けて藩に異議を申し立てた。だが、その結末はあまりにも残酷な処刑であった。
半平太は、清岡という男と、直接何度も言葉を交わしたわけではなかった。それでも、半平太の名を掲げて命を投げ出した二十三人の若者たちの顔を、半平太は一人ひとり、想像せずにはいられなかった。彼らにも、それぞれの家族があり、それぞれの故郷での日々があったはずだ。その一つひとつを、自分という男の名が、根こそぎ奪い去ってしまった。
(……わしが、甘かったのだ。わしが大義を説き、彼らを熱狂させたせいで、皆を死に追いやった)
半平太は、暗い灯火の下で独りごちた。自らの知略が、結果として同志たちの血を流させ、その家族を路頭に迷わせている。その現実は、いかなる「攘夷」の大義名分を持ってしても、拭い去ることのできない罪悪感として彼を苛んだ。




