表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
89/106

第八十九話 細い糸

 高知の獄舎。不浄な空気が漂う土牢にあっても、半平太の佇まいは一分の隙もなかった。

「武市。今日こそ東洋暗殺への関与を認めたらどうだ」

獄吏の執拗な尋問に対し、半平太は静かに、しかし峻烈な言葉で法理を説き、自らの正当性を主張し続けた。その姿は囚人というよりは、高潔な師が教壇に立っているかのようであった。

そんな半平太の監視を命じられた者の一人に、乾退助がいた。退助は上士の出でありながら、半平太の持つ凄まじい精神力と、国を思う一途な誠に、知らず知らずのうちに心を動かされていった。

「……武市さん。あんたの言うことは、いちいち理にかなっちゅう。だがな、今の藩の空気は、理屈じゃあ動かんぜよ」

退助は、職務の合間に半平太と語らい、時には監視の目を盗んで、筆と紙を差し入れた。容堂から「柳川左門」の名を剥がされた半平太にとって、それは唯一、己の魂を外の世界へ繋ぎ止める細い糸であった。

「乾さん、恩に着る」

半平太は、退助の温情に深く頭を下げた。上士の家柄でありながら、罪人となった郷士に対してこれほどまでに心を尽くしてくれる。その事実は、半平太の胸に、これまで感じたことのない種類の温かさをもたらした。

(乾殿……。おんしのような男が、まだこの土佐にはおるのだな。上士だ郷士だという垣根を、おんしはいとも容易く越えてくださる)

半平太は、退助が差し入れてくれた紙の質感を、指先で何度も確かめた。粗末な紙一枚が、これほどまでに人の心を繋ぎ止める力を持つことを、半平太はこれまで知らなかった。柳川左門として朝廷や幕府の重鎮と渡り合っていた頃には、決して気づけなかった種類の、ささやかで、しかし確かな絆であった。

半平太は、行灯の薄明かりの下で筆を執った。そこに綴られたのは、政見でも大義でもない。最愛の妻・富子への、痛いほどの情愛であった。

『富。わしの体は健やかだ。乾殿をはじめ、情け深い方々に囲まれておる。心配はいらぬ。……庭の梅は咲いたか。わしが戻る頃には、また二人で……』

筆を進めながら、半平太の脳裏には、獄外の景色が鮮やかに蘇っていた。鏡川の水面、新町の庭に咲く白梅、富子が淹れてくれる茶の香り。それらすべてが、この牢の中では、ひどく遠く、そして同時に、ひどく近く感じられた。

獄中から届けられるその手紙は、富子にとって生きる糧であったが、同時に半平太自身の心を「人」として繋ぎ止めるための、必死の祈りでもあった。

退助は、その手紙の内容を知り、ますますこの男を死なせてはならぬという思いを強くした。ある夜、退助は半平太にそっと囁いた。

「武市さん。……あんたのその手紙を読むたび、わしは、あんたが本当に東洋先生を殺した張本人なのか、わからんようになるがぜよ。あんたは、こんなにも情の深い男ながに」

半平太は、その言葉に静かに首を振った。

「乾さん。わしが情に厚いか薄いかは、わしにもよう分からん。ただ、わしが背負うたものの重さだけは、誰よりもわしがよう知っておる」

その答えに、退助はしばらく黙り込んでいた。だが、その沈黙こそが、退助の中に芽生えた、半平太への静かな敬意の証であった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ