第八十九話 細い糸
高知の獄舎。不浄な空気が漂う土牢にあっても、半平太の佇まいは一分の隙もなかった。
「武市。今日こそ東洋暗殺への関与を認めたらどうだ」
獄吏の執拗な尋問に対し、半平太は静かに、しかし峻烈な言葉で法理を説き、自らの正当性を主張し続けた。その姿は囚人というよりは、高潔な師が教壇に立っているかのようであった。
そんな半平太の監視を命じられた者の一人に、乾退助がいた。退助は上士の出でありながら、半平太の持つ凄まじい精神力と、国を思う一途な誠に、知らず知らずのうちに心を動かされていった。
「……武市さん。あんたの言うことは、いちいち理にかなっちゅう。だがな、今の藩の空気は、理屈じゃあ動かんぜよ」
退助は、職務の合間に半平太と語らい、時には監視の目を盗んで、筆と紙を差し入れた。容堂から「柳川左門」の名を剥がされた半平太にとって、それは唯一、己の魂を外の世界へ繋ぎ止める細い糸であった。
「乾さん、恩に着る」
半平太は、退助の温情に深く頭を下げた。上士の家柄でありながら、罪人となった郷士に対してこれほどまでに心を尽くしてくれる。その事実は、半平太の胸に、これまで感じたことのない種類の温かさをもたらした。
(乾殿……。おんしのような男が、まだこの土佐にはおるのだな。上士だ郷士だという垣根を、おんしはいとも容易く越えてくださる)
半平太は、退助が差し入れてくれた紙の質感を、指先で何度も確かめた。粗末な紙一枚が、これほどまでに人の心を繋ぎ止める力を持つことを、半平太はこれまで知らなかった。柳川左門として朝廷や幕府の重鎮と渡り合っていた頃には、決して気づけなかった種類の、ささやかで、しかし確かな絆であった。
半平太は、行灯の薄明かりの下で筆を執った。そこに綴られたのは、政見でも大義でもない。最愛の妻・富子への、痛いほどの情愛であった。
『富。わしの体は健やかだ。乾殿をはじめ、情け深い方々に囲まれておる。心配はいらぬ。……庭の梅は咲いたか。わしが戻る頃には、また二人で……』
筆を進めながら、半平太の脳裏には、獄外の景色が鮮やかに蘇っていた。鏡川の水面、新町の庭に咲く白梅、富子が淹れてくれる茶の香り。それらすべてが、この牢の中では、ひどく遠く、そして同時に、ひどく近く感じられた。
獄中から届けられるその手紙は、富子にとって生きる糧であったが、同時に半平太自身の心を「人」として繋ぎ止めるための、必死の祈りでもあった。
退助は、その手紙の内容を知り、ますますこの男を死なせてはならぬという思いを強くした。ある夜、退助は半平太にそっと囁いた。
「武市さん。……あんたのその手紙を読むたび、わしは、あんたが本当に東洋先生を殺した張本人なのか、わからんようになるがぜよ。あんたは、こんなにも情の深い男ながに」
半平太は、その言葉に静かに首を振った。
「乾さん。わしが情に厚いか薄いかは、わしにもよう分からん。ただ、わしが背負うたものの重さだけは、誰よりもわしがよう知っておる」
その答えに、退助はしばらく黙り込んでいた。だが、その沈黙こそが、退助の中に芽生えた、半平太への静かな敬意の証であった。




