第八十八話 捕縛
元治元年、京都四条河原町。夜半、以蔵は粗末な宿の一室に潜んでいた。
以蔵の頭からは、かつての冷徹な計算も、鋭敏な殺気の察知能力も、少しずつ失われつつあった。長く続いた逃亡生活と、心の拠り所を失った虚無感が、以蔵という一人の人間を、確実に蝕んでいたのである。
宿の壁の隙間から漏れる、隣家の話し声にすら、以蔵は敏感に反応した。誰かが自分の名を語っているのではないか。誰かが、密かに藩へ通報しているのではないか。その疑心は日ごとに膨れ上がり、以蔵はろくに眠ることもできなくなっていた。
「……先生。わしは、これから、どこへ行けばええがですか」
誰もいない部屋の中で、以蔵は独り、そう呟いた。その声は、かつて半平太の前で「先生の仰る通りに」と答えていた頃の、あの従順な少年の声によく似ていた。だが、その声に応える者は、もう誰もいなかった。
以蔵は、膝を抱え、行灯の小さな灯りを見つめた。腹が減っていた。だが、宿を出て食事を求めることさえ、以蔵には恐ろしかった。外に出れば、誰かに見つかる。誰かに、斬られる。あるいは、縄をかけられる。その恐怖は、かつて敵を前にしていた時の緊張とは、まったく質の異なるものであった。あの頃は、恐怖の先に、半平太からの称賛という光があった。だが今、以蔵を待っているのは、ただ底のない暗闇だけであった。
その夜、宿の周囲を、複数の人影が音もなく取り囲んでいた。土佐藩の追手であった。半平太の投獄以降、土佐藩は勤王党の残党狩りを続けており、以蔵もまたその対象の一人であった。
「岡田以蔵、神妙にせい!」
障子が破られ、複数の捕手が雪崩れ込んできた。以蔵は咄嗟に刀に手をかけたが、その動きは、かつての「人斬り」のものとは、まるで別人のように鈍かった。抵抗する気力そのものが、すでに以蔵の中から失われていたのかもしれない。
(……ああ。とうとう、来たか)
不思議なことに、以蔵の胸には、恐怖と同時に、ある種の安堵にも似た感情が広がっていた。もう、逃げなくてもいい。もう、独りで闇に怯えなくてもいい。誰かの手に、この身を委ねてしまえる。
「……ふん」
以蔵は、短く息を吐くと、静かに刀から手を離した。捕手たちが、戸惑うほどの、あまりに呆気ない投降であった。
縄をかけられながら、以蔵の脳裏に浮かんだのは、勝海舟の「人斬りはいかんよ」という言葉であった。あの言葉に従って生きようとした自分の日々は、結局、どこにも辿り着くことができなかった。
以蔵は、土佐へと護送されることとなった。その先に待っているのが、拷問と、そして自らの口から語られることになる、数々の凄惨な自白であることを、この時の以蔵は、まだ知る由もなかった。




