第八十七話 行き場のない男
半平太が投獄された後、以蔵はしばらくの間、新町の屋敷の周辺に留まっていた。富子の様子を見守るという、師との約束を守るためであった。だが、罪人の縁者として監視される武市家に、あまり頻繁に姿を見せることは、富子にさらなる災いを招きかねない。以蔵はそのことに気づき、次第に屋敷から足を遠ざけるようになっていった。
(先生は、わしに「生きろ」と仰った。……じゃが、わしは、どこで生きればええがぜよ)
夜、以蔵は寺の軒先や、人気のない橋の下で、独り膝を抱えて眠る日々を過ごしていた。かつて京都の闇で数多の命を奪ってきたその男は、今、暗闇そのものに怯えていた。物音が一つするたびに、以蔵の肩は大きく跳ね、腰の刀に手が伸びる。だが、その手は、いつも小刻みに震えていた。
(……誰か、来るがか。わしを、斬りに来るがか)
かつては、闇の中に潜むことこそが以蔵の得意とするところであった。だが今は、その闇そのものが、以蔵を包み込む恐怖の塊になっていた。天誅の夜、返り血を浴びながら恍惚とした表情を浮かべていたあの以蔵は、もうどこにもいない。
行き場を失った以蔵の足は、自然と、かつて自分が「人」として扱われた記憶のある場所――京都へと向かっていた。勝海舟や坂本龍馬の元へ戻れば、あるいはもう一度、あの「水平線」の光を見ることができるかもしれない。そんな淡い望みを抱きながら、以蔵は再び京の土を踏んだ。
だが、以蔵が見た京都は、かつての熱気に満ちた都ではなかった。八月十八日の政変以降、京都では新選組をはじめとする幕府方の取り締まりが、以前にも増して苛烈さを増していた。かつて「天誅」の名の下に暗躍した浪士たちは、今や幕府にとって最優先の掃討対象となっていたのである。
京の通りを歩くだけで、以蔵の背筋には、絶えず冷たい汗が伝った。すれ違う人の一人ひとりが、自分を見張っているのではないか。物陰に潜む影の一つひとつが、自分を狙う刺客なのではないか。かつて自分が誰かを「不浄」として斬り捨てたように、今度は自分自身が、誰かに「不浄」として斬られる番なのではないか。
(先生……。わしは、もう、剣を振るうのが、怖いがです)
その思いを、以蔵は誰にも打ち明けることができなかった。かつて半平太の元で「最強の刃」と呼ばれた自分が、今や刀を抜くことすら恐れている。そのことを認めれば、自分という人間の、最後の拠り所さえも崩れ去ってしまう気がしたのである。
勝海舟の屋敷を訪ねようとした以蔵であったが、すでに勝は江戸へと呼び戻されており、姿を見ることは叶わなかった。龍馬もまた、各地を飛び回る身で、行方を掴むことができない。
(……わしを『人』として見てくれた人らは、みんな、遠くへ行ってしもうた)
以蔵は、身を寄せる場所もないまま、京の裏路地を彷徨い続けた。夜、雨が降ると、以蔵は決まって小さく震えた。それは寒さのためだけではなかった。ひとりぼっちで雨に打たれる自分が、ひどく惨めで、心細く思えたからであった。かつて半平太と傘も差さずに歩いた、あの木屋町の雨とは、まるで違う冷たさであった。あの時は、隣に師がいた。今は、誰もいない。
かつて「人斬り以蔵」として恐れられたその名は、今や幕吏たちにとって、格好の獲物であった。




