第八十六話 ウナギの幼魚
そんなある日、一人の牢番が顔を輝かせてやってきた。
「先生、珍しいものが手に入りました。ウナギの幼魚です! 精をつけてください」
半平太は、実はそれほどウナギの幼魚を好んではいなかった。土佐の川で獲れるその小魚は、独特の泥臭さがあり、半平太の舌には正直なところ、あまり合わなかった。だが、差し出した男の純粋な好意を思うと、とても断ることはできなかった。
「……おお、これは。かたじけない。うまい、実に見事な味だ」
半平太は無理をして、一口ごとに「うまい」と言いながら完食してみせた。柳川左門として将軍にすら物怖じせず対峙し、幾多の血なまぐさい決断を下してきた男が、今、小さな椀の中の魚と、必死に戦っていた。喉に小骨が引っかかりそうになっても、半平太は表情ひとつ変えず、努めて満足げな顔を保ち続けた。
それを見た牢番は、子供のように喜んだ。
「ああ、そんなに喜んでいただけるとは! わかりました、またすぐに持ってきますきね!」
「……いや、それには及ば――」
半平太が遮ろうとした言葉は、牢番の弾んだ足音にかき消され、届くことはなかった。
(……また、か)
半平太は心の中で、そっと溜息をついた。それから数日を置かず、牢番は本当に、また同じ椀を手に現れた。
「先生、今日もようけ獲れましたき!」
「……おお。これは、重ね重ね、かたじけない」
半平太は、再び「うまい」を演じきった。だが、この日を境に、半平太のもとには週に二度、三度と、ウナギの幼魚が届けられるようになった。獄中で最も恐ろしいのは拷問でも孤独でもなく、この善意の食膳ではないかと、半平太は密かに思い始めていた。
その夜、富子へ宛てた手紙の中で、彼はこう綴っている。
『牢番の好意でウナギの幼魚を食したが、あまりに「うまい」と言い過ぎたせいか、また持ってくると言われてしまい、さすがに困惑している。……富、もし差し入れの機会があれば、それとなく、わしはウナギよりも青物の方を好むと、あの男に伝えておいてはくれぬか』
戦の最前線に立ち、藩を二分する闘争を演じてきた男が、一人の牢番の親切に戸惑い、困り果てている。その滑稽で温かな日常の断片は、半平太という人間が、どれほど深く他者を愛し、また愛されたかを示す、何よりの証左であった。
暗い獄舎に響く猫の鳴き声と、花の香り。そして、優しい嘘をつきながら困り顔で筆を走らせる半平太の姿。外の世界では「人斬り」の首領と恐れられた男の真実は、この小さな土牢の中にある、素朴な愛のやり取りの中にこそ、静かに息づいていたのである。




