第九話 位の桃井
安政三年八月。武市半平太は、藩の臨時御用という大義名分を得て、ついに江戸への剣術修行を許される。傍らには、若き門弟・岡田以蔵の姿もあった。
半平太が門を叩いたのは、鏡心明智流の開祖・桃井春蔵の道場、士学館である。木刀を交えての立ち合いにおいて、半平太に敵う者は、この江戸随一の道場においても、数えるほどしかいなかった。
桃井は、入門してきた土佐の男の剣を一目見て驚愕した。
「この男は、単なる修行者ではない」
異例の速さで皆伝を授けると、桃井は半平太を塾頭に据えた。半平太は自ら範を示し、礼節を正し、稽古のあり方を厳格に律した。半平太が道場に足を踏み入れるだけで、それまでの騒がしさは消え、空気は氷のように張り詰めた。
だが、この「無敵の塾頭」には、誰にも打ち明けたことのない、一つの恐怖があった。
ある日、桃井が、真剣による形稽古を半平太に申し付けたことがあった。木刀ではなく、抜き身の刀を用いての、緊張感のある稽古である。師の求めに応じねばならぬ立場でありながら、半平太は、その言葉に、一瞬、はっきりと体を強張らせた。
(……真剣、か)
木刀を握れば、何百人を相手にしようと、恐れることはない。だが、あの冷たく光る刃を目にすると、半平太の胸の奥で、決まって同じ記憶が疼く。
まだ幼かった頃。半平太は、村外れの道端で、恐ろしい光景を目にしたことがあった。些細な無礼を咎められた郷士が、上士の抜いた刀の下に、声もなく崩れ落ちる瞬間を。刃が振り下ろされる、あの一瞬の光。噴き出す血の色。断末魔の声すら上げられなかった、あの郷士の最期。
幼い半平太は、恐怖のあまり、その場から一歩も動けなかった。あれ以来、半平太にとって「真剣」とは、単なる武具ではなく、人の命を、あまりにも呆気なく奪い去る、恐ろしい何かの象徴であり続けていた。
「……いや、何でもござらん」
半平太は、平静を装い、刀を手に取った。だが、その柄を握る指先は、木刀を握る時とは違う、微かな緊張に強張っていた。
「半平太、いかがした。顔色が優れぬようだが」
桃井の声に、半平太は我に返った。
(わしは、木刀でならば、誰よりも強い。だが……この刃を、実際に人へ向ける日が来たなら、わしは、果たして耐えられるだろうか)
その自問に、半平太は、答えを見出すことができなかった。幸い、桃井はその微かな変化を、単なる緊張と受け取っただけで、深くは追及しなかった。
半平太が道場に足を踏み入れるだけで空気が張り詰めるほどの威風を纏いながら、その内側に、こうした根深い恐れを抱えていることを、士学館の誰一人として、知る由もなかった。




