第十話 身軽な龍馬
同じ頃、江戸にはもう一人、土佐の若き龍がいた。坂本龍馬である。彼は桶町の千葉道場で、その奔放な剣を磨いていた。
時折、半平太と龍馬は江戸の喧騒の中で顔を合わせた。千葉の「力」の剣を振るう龍馬と、士学館で「位」の剣を説く半平太。二人は、いずれ訪れる激動の時代を予感しながら、江戸の空を仰いでいた。
「半平太兄、江戸の空気は土佐とは違い、何やら焦げ臭い匂いがしますな」
「龍馬……。この黒船の煙は、徳川の威光を塗り潰そうとしている。わしらは、土佐の武士としてどうあるべきか、それを極めねばならん」
龍馬の飄々とした物言いに、半平太はいつも、どこか羨望に似た感情を抱いていた。同じ土佐の郷士でありながら、龍馬にはあの「泥」の記憶が、まるで重みを持たないかのように見える。
(おんしは、身軽でいいな、龍馬)
そう思う一方で、半平太は、自分がその重みを引き受けねば、誰が引き受けるのかとも思っていた。
「半平太兄は、相変わらず堅苦しいですな。たまには、羽を伸ばされたらどうですろう」
「わしにも、羽を伸ばす術くらいはある」
「ほう。それは何ですろう」
半平太は、一瞬、言葉に詰まった。まさか「夜な夜な人気のない場所を探して義太夫を唸っている」とは言えない。
「……剣の稽古じゃ」
「先生、それは羽を伸ばすではのうて、羽を締め上げちゅうがですぞ」
龍馬に笑い飛ばされ、半平太はぐうの音も出なかった。それでも、龍馬とこうして軽口を叩き合う時間は、半平太にとって、士学館での張り詰めた日々を忘れさせてくれる、数少ない安らぎでもあった。
半平太は、ふと真顔になり、声を落とした。
「……龍馬。おんしにだけ、頼みがある」
「何ですろう、改まって」
「わしは今、この江戸において、土佐の代表として見られておる。塾頭という立場もある。……道場では、冗談の一つも言えぬ。門弟の前で隙を見せれば、それがそのまま、土佐郷士全体の評判に響くのでな」
龍馬は、珍しく神妙な顔で、半平太の言葉に耳を傾けていた。
「じゃが、龍馬。おんしとおる時だけは……わしも、肩の力を抜かせてくれんか。この通り、わしとて、四六時中気を張っておっては、続かんのじゃ」
その一言に、龍馬は、しばし目を丸くしていたが、やがて、破顔一笑した。
「半平太兄も、そういう顔をなさるがですね。……よろしい。ここだけの話にしちょきます」
「……何を、ここだけの話にするのじゃ」
「半平太兄が、実は肩の凝る性分じゃということをですき」
「……それだけか」
「それだけで十分じゃないですろうか。それとも、他にも何か、隠しちゅうことがあるがですか」
龍馬が、悪戯っぽく片眉を上げる。半平太は、一瞬、心の内をぎくりとさせたが、すぐに平静を装った。
「……何もない」
「ほう。妙に慌てておいでですな」
「慌ててなどおらぬ」
半平太は、ため息をつきながらも、その口元には、隠しきれない笑みが浮かんでいた。龍馬には、まだ、義太夫のことは明かしていない。それは、富子とだけ分かち合う、半平太だけの秘密であった。
江戸での華やかな名声、塾頭という重責。だが半平太は、酒色に溺れることなく、夜は一本の筆を手に、土佐の富子へ手紙を書き続けた。「今日は桃井先生とこれこれの議論をした」「以蔵が江戸の寒さに驚いている」「おんしが送ってくれた袴の紐が、誰よりも丈夫で助かる」――武骨な文面の端々に、富子がいなくて義太夫の出来を確かめてもらえず寂しい、という、半平太なりの精一杯の甘えが滲んでいた。
富子はその手紙を読み、塾頭として江戸の猛者たちを従える夫が、龍馬とだけは肩の力を抜いて笑い合っている姿を想像しては、鏡川の風に負けぬような笑みをこぼすのだった。
安政三年。江戸の士学館に、土佐の「誠」が静かに根を下ろした。武市半平太という名は、時代そのものを動かす「核」へと成長を遂げていたのである。




