第十一話 乙女姉さんの文
士学館での稽古を終えたある日、龍馬が、いつになくにやにやとした顔で、半平太の元にやってきた。
「半平太兄。ちくと、聞きたいことがあるがぜよ」
「……何じゃ、その顔は。気味が悪いぞ」
「乙女姉さんから、文が届いたがです。少し前、土佐の武市家に、富子さんの様子を見に立ち寄ったそうでしてな。その時のことを、あれこれ書いてよこしてくれたがぜよ」
半平太は、嫌な予感がした。
「様子を見に、とは。……富に、何かあったのか」
「いや、案ずることはございませぬ。富子さんはお元気そうであった、とのことです。……ただ、乙女姉さんが『半平太様がおらんで、寂しゅうはございませぬか』と尋ねたところ、富子さんは、少し困ったような顔で、こう答えられたそうですぞ」
半平太は、思わず身を乗り出した。
「……富は、何と」
「『寂しいわけではございませぬ。ただ……蔵から、あの義太夫が聞こえてこぬのが、少しだけ寂しゅうございます』と」
半平太は、その場で凍りついた。
「……な」
「乙女姉さんも、最初は何のことやら分からず、富子さんに詳しく尋ねたそうですぞ。すると富子さんは、恥ずかしそうに、『主人は、夜な夜な蔵にこもって、義太夫を唸っておいでなのです。その声たるや、聞く者を震え上がらせるほどで』と、そう明かされたそうで」
半平太の顔から、血の気が引いていった。
(富……。おんしは、寂しいと素直に言うのが恥ずかしゅうて、そのような遠回しな言い方をしたのだな。……だが、そのせいで、こうして義太夫の一件が、江戸にまで伝わってしもうたではないか)
「半平太兄が、そのような愉快なことをしておられたとはなあ」
龍馬は、腹を抱えて笑い出した。半平太は、慌てて周囲を見回した。
「り、龍馬……。声が大きい」
半平太は、深く長いため息をついた。それから、ふと、その頬に、隠しきれない温かさが滲んだ。
(富……。おんしも、そのようなことを思うておったのか)
寂しいとは言えぬ、意地っ張りな富子。その代わりに、あの下手な唸り声が聞こえてこないことを、寂しいと言う。半平太にとって、それは、何よりも雄弁な、富子なりの愛情の伝え方であった。
半平太は、ふと真顔になった。
「……龍馬。考えてみれば、乙女殿には、感謝せねばならぬのだろうな」
「はて、なぜですろう」
「わしが江戸を離れておる間、留守を守る富のことを、こうして気にかけて、わざわざ訪ねてくださったのじゃ。それがなければ、富がそのようなことを思うておったとも、わしは知らずに終わっておったろう。……乙女殿には、感謝しかない」
半平太は、素直にそう漏らした。乙女という女性の情の厚さが、遠く離れた夫婦の間に、こうして小さな橋を架けてくれたのである。
「じゃが」
半平太は、すぐにまた、渋い顔に戻った。
「じゃが、それとこれとは、また別の話じゃ。……嬉しいと思う心と、恥ずかしいと思う心が、同時に来るとは、これはこれで、厄介なものよ」
「半平太兄も、複雑なお人ですなあ」
「複雑なのではない。これが、人としての、まっとうな心の動きというものじゃ」
半平太は、しみじみと、独り言のように呟いた。
「……これだから、女子は怖いのぉ」
「はて。富子さんも、乙女姉さんも、何も悪いことをしておられんと思いますが」
「そういう意味ではない。……富の一言が、乙女殿を経て、こうしておんしの耳にまで届く。女子同士の情の通い合いというものは、われらの与り知らぬところで、こうも広がっていくものなのじゃな」
半平太は、しみじみと、そう漏らした。
「龍馬。おんし、そう思わぬか。女子のおしゃべりには、われらどれほど剣を磨こうと、到底、勝てぬものよ」
龍馬は、しばし呆気に取られていたが、やがて、これまでで一番大きな声で笑い出した。
「半平太兄、それは違うがぜよ。おなご衆に勝とうとすることが、そもそもの間違いですき」
「……そういうものか」
「そういうものです」
半平太は、釈然としない顔をしながらも、それ以上は何も言わなかった。ただ、その耳たぶだけは、いつものように、隠しようもなく赤く染まっていたのである。




