第十二話 位の剣
築地、士学館。「位の桃井」と称される鏡新明智流の本拠であり、数百人の門下生が放つ熱気と竹刀の音が渦巻く、剣の聖域であった。その中心に、土佐から来た一人の男、武市半平太が立っていた。
半平太にとって、鏡新明智流が尊ぶ「位」の理は、己の半生を肯定するための鏡のようであった。ただ速く斬るのではない。中段に構えただけで相手を呑み込み、戦う前に勝機を奪い去る。土佐の理不尽な階級社会に耐え、心を研ぎ澄ませてきた半平太が静かに構えれば、対峙する他藩の腕利きや名門の跡取りたちは、その重圧に気圧され、じりじりと後退した。
半平太の木刀が、名門の面目ごと相手を打ち据えるたび、道場の端で見守る土佐の上士たちは苦虫を噛み潰したような顔をした。
(見るがいい。ここには、家格という盾はない)
半平太は、その苦い顔を見るたびに、胸のうちで密かな快哉を叫んだ。江戸の道場は、身分という鎖が通用しない「実力」という名の聖域。半平太は、ここで「白札」という中途半端な身分に甘んじる屈辱を、自らの腕一本で突き崩していたのである。
「武市さん、あんたの剣はもはや修行の域を超えている。執念だ。何をそこまで背負っているんだい?」
若き天才・桃井春蔵の問いに、半平太は静かに応えた。
「背負っているのは、泥に塗れた同胞たちの声にございます。彼らを光の下へ導くには、私が誰よりも強くならねばならぬのです」
桃井は、その答えに一瞬、目を細めた。剣の道を極めんとする者は数多く見てきたが、これほどまでに「己以外の誰か」のために刃を研ぐ男を、桃井は知らなかった。
(この男の剣は、いずれ道場という箱には収まりきらなくなるだろう)
桃井のその予感は、正しかった。修行からわずか一年足らず。半平太は士学館始まって以来の快挙となる「塾頭」の座に就いた。懐には「皆伝」の目録。だが、彼が本当に手に入れたのは、紙切れではない。「実力があれば、身分の壁は必ず突き崩せる」という、確固たる、そして危険な確信であった。
その夜、寮の自室で、半平太は独り、皆伝の目録を静かに広げていた。
(富。見ておるか。わしは、ついにここまで来たぞ)
誰もいない部屋で、半平太はそっと呟いた。本当なら、大声で叫び出したいほどの喜びであった。だが、その喜びを分かち合う相手は、遠く土佐にいる。半平太は、目録を丁寧に折りたたむと、その夜のうちに、富子への手紙をしたためた。
いつもの武骨な文面の中に、珍しく、隠しきれない高揚が滲んでいた。




