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第十三話 劇薬

 稽古を終えた夜、半平太は築地の藩邸を抜け出し、長州藩士たちが集う密やかな酒座にいた。そこにいたのは、桂小五郎や久坂玄瑞といった、松下村塾で吉田松陰の教えを受けた若き才子たちである。

久坂玄瑞は、この土佐からきた剣客を、初めて見たときから注意深く観察していた。

(武市半平太――。士学館始まって以来の塾頭、か)

久坂にとって、諸藩の志士との交わりは、単なる友誼ではない。それぞれの藩が、来るべき時代にどう動くか、その「駒」としての値踏みでもあった。土佐という大藩は、長州にとって喉から手が出るほど欲しい後ろ盾である。だが、土佐の上士たちは因循姑息で、到底当てにならない。

(ならば、この男はどうか)

久坂の見立てでは、武市という男には、他の土佐藩士にはない「熱」があった。ただの剣客の熱ではない。何か、内側で長く燻り続けてきた鬱屈のようなものが、その静かな佇まいの奥に見え隠れしている。

(この熱は、使える)

久坂はそう判断すると、身を乗り出した。

「武市殿。いつまで、その『藩』という小さな箱の中で悩んでおられるのか。今、日本が直面しているのは、異国による侵略だ。天子様を奉じれば、それは何よりも重い官位となる。藩の門閥など、その前では塵に等しい」

「天子様を尊び、異国を討つ」

その理屈は、半平太にとって雷鳴のような衝撃であった。

(藩の門閥が、塵に等しい……。この理屈、確かに一分の隙もない)

だが、半平太の胸の内には、同時に、もう一つの冷静な声もあった。

(……じゃが、待て。相手は長州じゃ。同じ土佐の郷士同士であれば、まだ腹の内も測りやすい。だが、他藩、しかもこの長州という藩は、一体、何を考えておるのか)

久坂の理屈には、確かに心を打たれるものがある。だが、それがそのまま、長州という藩全体の善意であるとは、半平太には、まだ信じ切れなかった。久坂の瞳の奥に、ふと見え隠れする、値踏みするような光。半平太は、剣客としての勘で、その微かな陰りを、確かに感じ取っていた。

(この男、わしを一個の人間として見ておるのか。それとも、土佐という駒として見ておるのか。……腹が、読めん)

その疑念は、半平太の胸の中で、久坂への感銘と分かちがたく絡み合っていた。信じたい。だが、容易く信じてはならぬ。その両方の思いを抱えながら、半平太は、なおも久坂の言葉に耳を傾け続けた。

もし自分が「天子様の意志」を体現する者になれば、土佐の上士たちなど、ただの「天子様に背く逆賊」として断罪できる。自分がこれまで苦しんできた身分の差を一気に飛び越え、かつ主君・容堂公を「天下の忠臣」へと押し上げる唯一の道が、そこにあった。

「……教えられた。道は、見えた」

半平太のその呟きに、久坂は口元にわずかな笑みを浮かべた。それは、同志を得た喜びであると同時に、有用な駒を一つ、確保できたという冷静な計算の笑みでもあった。

(この男は、いずれ土佐という藩そのものを、こちらの側へ引きずり込んでくれるかもしれぬ)

久坂の胸算用と、半平太の魂の震えは、この夜、同じ酒座の中で、まったく違う温度を持ったまま、静かに交差していた。

長州の志士たちが語る過激な思想は、半平太の中で、土佐の泥を焼き払うための「劇薬」へと姿を変えた。主君への忠義を貫きながら、同時に旧弊を打ち破るための完璧な「論理の鎧」を手に入れたのである。

だが、その劇薬を、どこまで信じて服すべきか。半平太の中には、最後まで拭いきれない、一抹の警戒が残っていた。

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