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第十四話 破られた掟

 築地の夜。土佐藩邸の奥まった一室で、半平太は行灯の火を凝視したまま、石のように座していた。傍らには、坂本龍馬がいた。二人の間には、一通の報告書が投げ出されていた。親類・山本琢磨が商人の時計を盗み、売却したという「恥」の証左である。

「……半平太兄。切腹の沙汰を待つ必要はない。今、琢磨に腹を切らせて何になる」

龍馬の低い声が、静寂を切り裂く。

「法は、人を活かすためにあるもんじゃ。あいつは愚かじゃが、その腕はまだ死なせてはならん」

半平太は答えなかった。士学館の塾頭として、彼は数百の門下生に「位」と「礼節」を説いてきた。身内の不始末を隠し、法を曲げることは、自ら築き上げた武士としての骨格を叩き折るに等しい。

(わしは、これまで誰よりも法を、礼を重んじてきた。それが、わしを「郷士のわりには」という枕詞から救い出す、唯一の盾であったはずだ)

だが、半平太の脳裏には、幼い頃の琢磨の姿も浮かんでいた。まだ吹井村で、共に川遊びをしていた頃の、あの無邪気な笑顔。愚かな真似をしでかしたとはいえ、あの琢磨が、腹を切って死ぬ。その想像だけで、半平太の胸は締め付けられた。

(琢磨……。おんしは、確かに愚かなことをした。じゃが、それだけの理由で、おんしの命を、易々と諦めるわけにはいかぬ)

半平太の中で、ふたつの声がせめぎ合っていた。士学館塾頭として積み上げてきた規律への忠誠。そして、久坂玄瑞らと酌み交わした酒の熱がまだ胸の奥で燻らせている、あの「天子様を奉じ、国を救う」という大義。

(法とは、誰のためにあるのか。上士どもの面目を守るためだけの法であれば――)

「龍馬。おんし、腹は決まっておるのか。これは、士学館塾頭という肩書きも、土佐郷士としての立場も、すべて危うくする行いぞ」

「半平太兄。そがいなことを、いちいち気にしよったら、人ひとり救えんがぜよ」

龍馬は、事もなげにそう言い放った。その豪放磊落な物言いに、半平太は、思わず苦笑した。

(この男は、いつもそうじゃ。損得も、世間体も、まるで気にせぬ。……羨ましいような、危なっかしいような)

「……龍馬。わしとおんしで、琢磨を逃がす。これは、わしらが藩の法に背くということだ。承知か」

「……望むところぜよ。半平太兄と一緒なら、地獄の果てまでも付き合うちゃる」

龍馬は、まるで祭りにでも誘われたかのように、屈託なく笑った。半平太は、その笑顔に、これまで感じたことのない安心感を覚えた。

二人は闇に紛れ、藩邸の監視を鮮やかに潜り抜けた。士学館で研ぎ澄ませた半平太の「気」は、追っ手の気配を完全に遮断し、龍馬の機転が琢磨を江戸の喧騒の出口へと導いた。

「行け、琢磨。二度と土佐の土は踏めぬと思え。だが、生きて……生きて、いつかこの国のためにその命を使い切れ」

闇へ消えていく琢磨の背中を見送りながら、半平太は自分の手が微かに震えていることに気づいた。それは恐怖ではない。自らの意志で、二百年続く「藩の掟」という檻を突き破った者だけが味わう、峻烈な解放感であった。

(わしは今、初めて、藩という重石を自らの手で押しのけた)

その解放感は、甘美であると同時に、どこか恐ろしくもあった。一度破った箍は、二度と元には戻らない。

「半平太兄、そがいな難しい顔をせんでもよいがぜよ。人ひとり、命を拾うたがです。それだけで、十分でございましょう」

龍馬の屈託のない声に、半平太は、ようやく強張っていた肩の力を抜いた。

「……そうじゃな。おんしの言う通りじゃ」

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