表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
15/106

第十五話 根の在処

 琢磨を逃がしてから数日、半平太はどこか落ち着かない日々を過ごしていた。藩邸の廊下を歩くたび、誰かに呼び止められるのではないかと、内心では常に身構えていたのである。

(もし発覚すれば、士学館塾頭という立場も、土佐郷士としての面目も、すべて失うことになる。……いや、それだけでは済むまい)

だが、幸いにも、琢磨の失踪は「行方知れず」として片付けられ、それ以上の詮索が半平太たちに向けられることはなかった。藩邸内が落ち着きを取り戻していく様子を見て、半平太は、ようやく肩の力を抜くことができた。

「半平太兄、案ずることはなさそうですな」

龍馬が、事もなげにそう言った。

「……ああ。どうやら、露見はせなんだようじゃ」

半平太は、深く息を吐いた。それは、罪の意識からの解放ではない。あの夜の決断が、正しかったのだと、静かに確信できたことへの安堵であった。

(琢磨。おんしが、どこかで無事に生きておることを祈っておるぞ)

しかし、運命は半平太に江戸の余韻に浸ることを許さなかった。九月。土佐から届いたのは、祖母の危篤を告げる急信であった。

「以蔵、荷をまとめろ。帰るぞ」

塾頭の座を惜しむ桃井春蔵の引き止めを背に、半平太は即座に江戸を立つ支度を始めた。だが、慌ただしい旅支度の合間にも、半平太はふと足を止め、街道沿いの小さな店に立ち寄った。

「先生、そのようなことをしておる暇が、今ございますのか」

以蔵が、怪訝そうに尋ねた。半平太は、手早く紙包みを懐にしまいながら、短く答えた。

「祖母様の一大事に、暢気なことをしておるように見えるかもしれぬ。じゃが……富への土産を買わずに帰るわけにはいかぬのじゃ」

「……こんな時にまで、でございますか」

「こんな時じゃからこそ、じゃ。急な報せに、富も、心細い思いをしておろう。せめて、わしが無事に、変わらず帰ってきたのだという証を、持ち帰ってやりたい」

半平太は、それだけ言うと、足早に歩き出した。懐には、血の滲むような修行の果てに得た「鏡新明智流皆伝」の目録。そして、胸の内には「攘夷」という名の、日本を焼き尽くすほどの火種。それらと並んで、小さな紙包みが、大切そうに収められていた。

出立の朝、龍馬が見送りにやってきた。

「半平太兄、祖母様のこと、案じておりますき。……気張って、駆け抜けなさい」

「龍馬。……琢磨の一件、世話になった」

「なんの。あれは、わしも望んでやったことぜよ。半平太兄が気に病むことは、何もないがです」

龍馬は、いつものように屈託なく笑った。半平太は、その笑顔に、深く頭を下げた。

「……おんしのような男が、土佐におってくれて、良かった」

「照れくさいことを言いなさんな。……早う、行きなさい。祖母様が、待っておいでますき」

龍馬に背中を押されるようにして、半平太は東海道を下った。

街道の脇に咲く秋草が、冷たい風に揺れている。彼は、土佐で一人、老いた祖父母を世話し、自分の帰りを待っている富子の姿を想った。

(富……。祖母様は、間に合うだろうか)

江戸で手に入れた華やかな名声、塾頭という肩書き。それらすべてを脱ぎ捨ててでも、彼は守るべき「根」へと急いだ。彼にとっての誠とは、天下国家を語ることと同じ重さで、家族の最期を看取ることにある。

道中、以蔵が心配そうに尋ねた。

「先生、江戸の皆伝や塾頭の座を、惜しゅうはないがですか」

半平太は、しばし黙って歩き続けた後、静かに答えた。

「……惜しくないと言えば、嘘になる。じゃが、以蔵。わしにとって、皆伝の目録よりも重いものが、土佐にはある」

「重いもの、とは」

「言葉にすれば安っぽくなる。ただ、急がねばならぬ、それだけじゃ」

半平太は、それ以上を語らなかった。だが、その足取りの速さが、何よりも雄弁に、彼の想いを物語っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ