第十五話 根の在処
琢磨を逃がしてから数日、半平太はどこか落ち着かない日々を過ごしていた。藩邸の廊下を歩くたび、誰かに呼び止められるのではないかと、内心では常に身構えていたのである。
(もし発覚すれば、士学館塾頭という立場も、土佐郷士としての面目も、すべて失うことになる。……いや、それだけでは済むまい)
だが、幸いにも、琢磨の失踪は「行方知れず」として片付けられ、それ以上の詮索が半平太たちに向けられることはなかった。藩邸内が落ち着きを取り戻していく様子を見て、半平太は、ようやく肩の力を抜くことができた。
「半平太兄、案ずることはなさそうですな」
龍馬が、事もなげにそう言った。
「……ああ。どうやら、露見はせなんだようじゃ」
半平太は、深く息を吐いた。それは、罪の意識からの解放ではない。あの夜の決断が、正しかったのだと、静かに確信できたことへの安堵であった。
(琢磨。おんしが、どこかで無事に生きておることを祈っておるぞ)
しかし、運命は半平太に江戸の余韻に浸ることを許さなかった。九月。土佐から届いたのは、祖母の危篤を告げる急信であった。
「以蔵、荷をまとめろ。帰るぞ」
塾頭の座を惜しむ桃井春蔵の引き止めを背に、半平太は即座に江戸を立つ支度を始めた。だが、慌ただしい旅支度の合間にも、半平太はふと足を止め、街道沿いの小さな店に立ち寄った。
「先生、そのようなことをしておる暇が、今ございますのか」
以蔵が、怪訝そうに尋ねた。半平太は、手早く紙包みを懐にしまいながら、短く答えた。
「祖母様の一大事に、暢気なことをしておるように見えるかもしれぬ。じゃが……富への土産を買わずに帰るわけにはいかぬのじゃ」
「……こんな時にまで、でございますか」
「こんな時じゃからこそ、じゃ。急な報せに、富も、心細い思いをしておろう。せめて、わしが無事に、変わらず帰ってきたのだという証を、持ち帰ってやりたい」
半平太は、それだけ言うと、足早に歩き出した。懐には、血の滲むような修行の果てに得た「鏡新明智流皆伝」の目録。そして、胸の内には「攘夷」という名の、日本を焼き尽くすほどの火種。それらと並んで、小さな紙包みが、大切そうに収められていた。
出立の朝、龍馬が見送りにやってきた。
「半平太兄、祖母様のこと、案じておりますき。……気張って、駆け抜けなさい」
「龍馬。……琢磨の一件、世話になった」
「なんの。あれは、わしも望んでやったことぜよ。半平太兄が気に病むことは、何もないがです」
龍馬は、いつものように屈託なく笑った。半平太は、その笑顔に、深く頭を下げた。
「……おんしのような男が、土佐におってくれて、良かった」
「照れくさいことを言いなさんな。……早う、行きなさい。祖母様が、待っておいでますき」
龍馬に背中を押されるようにして、半平太は東海道を下った。
街道の脇に咲く秋草が、冷たい風に揺れている。彼は、土佐で一人、老いた祖父母を世話し、自分の帰りを待っている富子の姿を想った。
(富……。祖母様は、間に合うだろうか)
江戸で手に入れた華やかな名声、塾頭という肩書き。それらすべてを脱ぎ捨ててでも、彼は守るべき「根」へと急いだ。彼にとっての誠とは、天下国家を語ることと同じ重さで、家族の最期を看取ることにある。
道中、以蔵が心配そうに尋ねた。
「先生、江戸の皆伝や塾頭の座を、惜しゅうはないがですか」
半平太は、しばし黙って歩き続けた後、静かに答えた。
「……惜しくないと言えば、嘘になる。じゃが、以蔵。わしにとって、皆伝の目録よりも重いものが、土佐にはある」
「重いもの、とは」
「言葉にすれば安っぽくなる。ただ、急がねばならぬ、それだけじゃ」
半平太は、それ以上を語らなかった。だが、その足取りの速さが、何よりも雄弁に、彼の想いを物語っていた。




