第八話 種を蒔く旅
安政二年秋。半平太の圧倒的な指導力と技量は、ついに藩庁をも動かした。藩の命により、安芸郡や香美郡といった東部への「出張教授」が命じられたのである。
(かつて待遇への不満から視察を辞退した男が、いまや請われて各地を巡ることになるとはな)
半平太は、旅支度を整えながら、皮肉な巡り合わせに苦笑した。
「富、しばらく家を空ける。……祖父母のこと、道場のこと、すべておんしに預けることになるが、すまんな」
「半平太様。あなた様は、広い世界で多くの志士たちにその剣を、そして心を説いてきてくださいませ。この家と道場は、私がしっかりと守り抜きます」
「うむ……。ああ、そうじゃ、富。旅先でも、義太夫の稽古は欠かさぬつもりじゃ」
「まあ。旅の宿でも唸られるおつもりですか。……相部屋の方が、さぞかし驚かれましょうね」
「な……。おんし、そういうところで茶化すでない」
半平太は赤面しながら旅立った。
各地を巡るなか、土佐の至るところで「武市半平太」の名が響き渡った。農村の若者たちに剣を教え、時には酒を酌み交わし、国を憂う心を説く。
だが、半平太が本当に見ていたのは、剣の稽古をつける若者たちの、その足元であった。草鞋も満足に買えず、裸足で道場に通う少年。傘一本買う金もなく、雨に打たれながら稽古を見に来る老いた郷士。そのひとりひとりの姿に、半平太はかつての自分自身を、そして雨のぬかるみに膝をついた名も知らぬ老人の姿を、重ねずにはいられなかった。
(この者たちに、剣だけを教えて、それで良いのか)
夜、旅先の宿で、半平太は独り、富子に宛てる手紙を認めていた。ふと筆を置き、誰もいないことを確認してから、彼は小声で「唸り」始める。
「……そもそも、土佐の、あだ波の……っ、ぬ、ぬうううう!」
隣室から、微かに壁を叩く音がした。
「……先生、お休みのところ申し訳ございませぬが、少々、お声が」
半平太は、飛び上がらんばかりに驚き、慌てて口を閉じた。
(……宿での夜這いには気をつけよと教わったが、まさか義太夫の方で恥をかくとはな)
翌朝、半平太は、いつもより一層静かに旅支度を整えるのだった。
だが、その拙い唸り声の中には、遠く離れた我が家で、百二十人の門弟と家を守り続けている富子への、あふれんばかりの感謝と情愛が込められていた。
同時に、半平太の胸のうちでは、もう一つの声が静かに育ちつつあった。この出張教授という経験こそが、のちに土佐を一色に染め上げる「土佐勤王党」という巨大な組織の種を、土佐の赤土に深く蒔くこととなる――そのことに、まだ半平太自身は気づいていない。彼はただ、目の前の若者たちの飢えた瞳に、剣だけでは埋めきれない何かを感じ始めていただけであった。
安政二年、秋。武市半平太という小さな川の流れは、多くの若者たちの熱意を飲み込み、やがて時代を飲み込む大河へと、その姿を変えようとしていた。




