第八十四話 連行
翌朝、雨はまだ、しとしとと降り続いていた。
武市邸の門前に、複数の足音が、重々しく響いた。半平太は、その気配に、静かに顔を上げた。
「……来たか」
以蔵が、咄嗟に、腰の刀に手をかけようとした。だが、半平太は、その動きを、静かに、しかし、はっきりとした声で制した。
「以蔵。……動くな」
門の外から、役人の重々しい声が響いた。
「武市半平太。……藩命により、これより、おんしの身柄を、拘束いたす。神妙に、お縄を受けよ」
その声に、屋敷の中の空気が、一瞬にして、凍りついた。富子は、震える手を、着物の裾の上で、強く握りしめた。だが、その顔には、取り乱した様子は、一切見られなかった。
半平太は、静かに立ち上がり、身なりを整えた。柳川左門としての華美な装束ではない、質素な、ただの武市半平太としての装いであった。
(この日が、来たか)
半平太は、袴の紐を結びながら、静かに、自分自身に、そう言い聞かせた。恐怖は、なかった。むしろ、長らく胸の奥で燻り続けてきた覚悟が、ようやく、その出番を迎えたような、奇妙な落ち着きが、半平太の中にはあった。
「……富。行ってくる」
その一言に、富子は、深く、深く頭を下げた。
「……行ってらっしゃいませ」
その声は、静かで、しかし、揺るぎなかった。夫を送り出す、いつもと変わらぬ言葉。ただ、その言葉の裏に込められた想いの重さだけが、これまでとは、まるで違っていた。
半平太は、玄関先で、一度だけ、富子の顔を、じっと見つめた。何かを言おうとして、しかし、その言葉を、半平太は、結局、口にすることができなかった。ただ、深く、頷いただけであった。
(富。……昨夜、語り尽くしたはずのことも、まだ、言い足りぬ気がする。……いや、それでよい。言葉にできなんだ分は、おんしなら、きっと、分かってくれるはずだ)
その想いを胸に、半平太は、静かに、玄関を後にした。
門を出ると、そこには、数名の役人と、その背後に、抜き身の槍を構えた足軽たちの姿があった。物々しいその光景に、以蔵の拳が、強く握りしめられた。
「先生……!」
「以蔵」
半平太は、振り返ることなく、静かに、しかし、はっきりと告げた。
「頼んだぞ」
その一言だけを残し、半平太は、役人たちに囲まれるようにして、雨の降りしきる道を、静かに歩き出した。縄をかけられることこそなかったが、その両脇を固める足軽たちの姿は、半平太がもはや、自由の身ではないことを、何よりも雄弁に物語っていた。
道行く先、雨に霞む城下の街並みを、半平太は、一つひとつ、目に焼き付けるように、見つめていった。この道を、道場へ通った日々。富子と共に歩いた、鏡川のほとり。すべてが、今、遠い記憶の彼方へと、静かに、遠ざかっていくようであった。
富子は、門前に立ち尽くしたまま、その後ろ姿を、いつまでも、見送り続けていた。雨に濡れるのも構わず、半平太の背中が、雨脚の向こうに、完全に見えなくなるまで。
「……富子様」
以蔵が、震える声で、そう呼びかけた。だが、富子は、しばらくの間、何も答えなかった。ただ、雨の中に立ち尽くし、静かに、涙を流していた。それは、これまで、誰の前でも、決して見せることのなかった、富子の、剥き出しの涙であった。
「以蔵さん……。半平太様を……。半平太様を、よろしく、お願い申します」
その一言だけを、富子は、ようやく、絞り出すように、口にした。以蔵は、深く、深く、頭を下げた。
高知の空は、いつまでも、重い雨雲に覆われたままであった。武市半平太の、長い獄中生活が、ここに、静かに、始まろうとしていたのである。




