第八十三話 鎖を置く
食後、瑞山は静かに文机に向かい、一通の封書を認めた。宛名は山内容堂。そこには、これまでのような忠義の言葉ではなく、ただ一言、「臣、瑞山。命に従い、裁きを待つ」とだけ記されていた。
「柳川左門は、江戸に置いてきた。今のわしは、ただの武市半平太だ」
瑞山は、容堂から下賜されたあの豪華な刀を、床の間に置いた。それは、主君との絆の証であると同時に、自分を縛り付けた美しい鎖でもあった。刀身に映る自分の顔を、瑞山はしばらくの間、じっと見つめていた。
(この刀を頂いたあの日、わしはどれほど誇らしかったことか。だが今は、これを手放すことの方が、よほど心が軽い)
その様子を、少し離れた場所から富子が見つめていた。夫が刀を置く音を聞いたとき、富子の胸には、言いようのない痛みが走った。だがその痛みを、富子は決して顔には出さなかった。
夜も更け、以蔵が別室で仮眠を取るようにと下がった後、屋敷にはようやく、瑞山と富子、二人だけの静かな時間が訪れた。
「……瑞山様。今夜は、久しぶりに、おんしの傍で眠りたい」
瑞山のその言葉に、富子は静かに頷いた。二人は、行灯の灯りを一つだけ残し、肩を並べて座った。長い沈黙が続いた。だが、その沈黙は気まずいものではなく、言葉を必要としない、深い理解に満ちたものであった。
「……富。すまなんだな。おんしを、幾度も危うい橋の上に立たせてしもうた」
「半平太様。私は、後悔などいたしませぬ。あなた様のお側におれたこと、この富にとっては、何よりの誉れにございました」
富子は、瑞山の手を、そっと自分の両手で包んだ。瑞山は、その手の温もりを感じながら、ふと、ずっと胸の奥にしまい込んできた思いを、口にした。
「富。……おんしには、一つだけ、詫びねばならぬことがある」
「何でございましょう」
「わしらの間には、とうとう子が授からなんだ。吉村が、おんしを実家へ帰らせ、代わりの女子を寄越そうとしたあの時――わしは、あやつを追い返した。……あれは、武市の家名を継がせるという務めよりも、わし自身が、おんし以外の女子を迎えることに耐えられなんだからだ。おんしを傷つけてまで、そうしたかった。それは、わしの、身勝手な我欲であったのやもしれぬ」
富子は、静かに首を振った。
「半平太様。あの時、あなた様が私を選んでくださったこと、私は生涯、忘れは致しませぬ。子がおらぬことを、寂しゅう思わなかったと言えば、嘘になりましょう。……ですが、それ以上に、あなた様が、私という一人の女子を、最後まで一人の人として見てくださったこと。それこそが、私にとっての、何よりの宝にございました」
瑞山は、目を閉じた。富子の言葉が、これまで自分が抱え続けてきた、誰にも言えぬ小さな負い目を、そっと溶かしていくのを感じた。
「……甥の一人を、養子に迎える話が進んでおる。武市の家名は、途絶えさせぬ。だが、それは家のためだけではない。おんしが、この先も一人にならぬように――わしが、そう望んだのだ」
「はい。存じております。……その子を、私は我が子として、大切に育てて参ります」
富子は、瑞山の肩に、そっと頭を預けた。江戸で買い求めたあの鼈甲の髪飾りが、行灯の光の中で、静かな輝きを放っていた。
「富。……おんしだけが、わしという男を、柳川左門でも、瑞山でもなく、ただの半平太として見てくれた。世の誰もが、わしの肩書きや、わしの掲げる大義を見ていた中で、おんしだけが、わし自身を見てくれておった」
「半平太様がどのような名で呼ばれようとも、私にとっては、いつも同じ、あの不器用な、義太夫の下手なお方にございます」
富子の言葉に、瑞山は久しぶりに、小さく笑った。それは、柳川左門としての笑みでも、瑞山としての笑みでもない、ただの武市半平太としての、飾らない笑みであった。
「先生! 今ならまだ、裏門から逃げられます! 龍馬さんのところへ……勝先生の船へ!」
翌朝、目を覚ました以蔵が、瑞山の袖を掴んで叫んだ。だが、瑞山は優しく、しかし毅然とした力でその手を振り払った。
「以蔵。おんしは、勝先生に『いい目をしてる』と言われたのだろう? だったら、その目を、こんな暗い屋敷で曇らせるな。わしは、ここから動かん。動けば、収二郎たちの死が、ただの犬死にになる」
瑞山は、自分が死ぬことでしか、自分の語った大義を完結させられないことを悟っていた。彼は、己の命という最後の一片を埋めることで、崩れゆく土佐勤王党という形を完成させようとしていたのである。
「……以蔵。おんしに、一つだけ頼みがある」
瑞山は、静かに以蔵の目を見た。
「わしがこの屋敷を出た後も、時折でよい。富の様子を見てやってくれんか。おんしになら、わしも安心して頼める」
以蔵は、答える代わりに、深く、深く頭を下げた。その背中は、これまでのどの瞬間よりも、小さく見えた。
雨は、いよいよ激しさを増していた。武市の屋敷を叩く雨音だけが、その夜、いつまでも止むことなく響き続けていたのである。




