表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
82/106

第八十二話 富の膳

 文久三年九月二十一日。高知の空を覆っていた重い雲から、ついに雨がこぼれ始めた。

武市の屋敷は、もはやかつての志士たちの溜まり場ではなく、死を待つ者の静かな棺のようであった。

瑞山は、妻の富子が静かに用意した膳を前に、以蔵と向かい合っていた。

「食わんか、以蔵。富の料理は、江戸のどんな馳走よりも旨いぞ」

瑞山の声は、驚くほど穏やかであった。だが、以蔵は箸を持とうとしなかった。その瞳は、足元に置かれた自身の刀と、瑞山の首筋を交互に見つめ、激しく揺れていた。

膳の上には、湯気を立てるぐる煮の椀があった。それを見た瞬間、以蔵の脳裏に、遠い記憶が、鮮やかに蘇った。

(先生……。わし、これを、初めて食べさせてもろうた日のこと、覚えちょります)

まだ十代の若い頃、道場に入門したばかりの以蔵が、初めて、この屋敷に招かれた日のこと。富子が作ってくれたぐる煮を、以蔵は、口の周りを汁だらけにしながら、夢中で頬張った。「先生、富子様のぐる煮、こがいに旨いもん、初めて食べましたき!」と、屈託なく笑っていた、あの日の自分。瑞山もまた、その隣で、誇らしげに「そうじゃろう。富の飯は、たまらんきのう」と、笑っていた。

(あの頃は、まだ、何も知らんかった。血の匂いも、天誅も、殺意も……。ただ、腹一杯食べて、笑うておるだけの、幸せな時があったがじゃ)

その記憶が、あまりに眩しく、そして、あまりに遠く感じられ、以蔵の胸は、締め付けられるように痛んだ。

富子は、膳の脇に控えたまま、二人のやり取りを静かに見守っていた。夫の顔に、これまでにない静けさが宿っていることに、富子は気づいていた。それは諦めではない。むしろ、長い迷いの果てにようやく辿り着いた、澄んだ覚悟のようなものであった。前夜、瑞山から、藩内で自分への詮議が進んでいることを、静かに打ち明けられた富子は、その夜のうちに、この最後の膳を、心を込めて、支度していたのである。

膳を運ぶ富子の手の動き一つひとつを、瑞山は目で追っていた。汁椀を置く仕草、箸を揃える指先――嫁いできたあの日から十数年、数えきれぬほど見てきたはずのその所作が、今夜はなぜか、これまでにないほど尊く、愛おしいものに見えた。

(富。おんしと過ごした日々を、わしは一日たりとも忘れたことはない。地震で家が潰れたあの夜も、百二十人の門弟の世話に明け暮れたあの日々も、おんしは一度も、わしを責めなんだ)

瑞山は、富子がそっと差し出した汁椀を受け取りながら、その指先に、自分の指を一瞬だけ、そっと触れさせた。富子は驚いたように顔を上げたが、何も言わず、ただ静かに微笑んだ。その微笑みに、瑞山の胸は、これまで経験したことのない種類の温かさで満たされた。

「先生。わしら、どこで間違えたがでしょうか。あの京都の熱い夏に、わしらが斬った人らは、みんな無駄死にやったがでしょうか」

以蔵の問いは、瑞山の胸を鋭く刺した。自分が天誅の名の下に命じた暗殺。その刃を振るったのは、目の前のこの青年なのだ。

「無駄ではなかった。そう信じねば、わしらは一歩も歩けん。……だが、以蔵。わしが望んだのは、おんしを人斬りにすることではなかった。本当は、おんしを、この土佐の新しい世を担う武士にしたかったのだ」

瑞山の嘘のない言葉に、以蔵の目から涙が溢れた。だが、その涙はもう、師への心酔ではなく、あまりに遅すぎた慈しみへの絶望であった。

「……先生。それを、もっと早う言うてくれちょったら」

以蔵の声は、震えながらも、はっきりとそう告げていた。瑞山は、その言葉に何も返すことができなかった。ただ、静かに目を伏せた。

(以蔵。おんしに、話しておかねばならぬことが、まだある)

瑞山は、しばらくの沈黙の後、静かに、しかし、ゆっくりと、口を開いた。

「以蔵。……わしは、もう一つ、おんしに、正直に、話しておかねばならぬことがある」

以蔵は、涙に濡れた顔を上げ、瑞山を見つめた。

「わしが掲げた、あの尊王攘夷という旗印。あれは、久坂殿から、江戸で教えられたものだ。……じゃが、正直に言えば、わしは、あの理屈そのものに、心底から、惚れ込んでおったわけでは、なかったのかもしれん」

その告白に、以蔵は、大きく目を見開いた。

「わしが本当に欲しかったのは、攘夷そのものではない。土佐の郷士たちを、一つにまとめる、確かな旗印であった。……その旗印であれば、正直、何でもよかったのかもしれん。攘夷が、たまたま、その役目を果たしてくれた、ただ、それだけのことなのだ」

瑞山の声には、これまでの人生を、静かに振り返るような、深い落ち着きがあった。

「わしは、世の中の動きに、あまりに敏感になりすぎておった。長州が動けば、わしも動かねばならぬ。薩摩が動けば、わしらも遅れを取れぬ。……そう焦るあまり、わしは、自分の見通しの甘さに、最後まで、気づけなんだ」

瑞山は、そこで、一度、静かに息を吐いた。

「それに……。もう一つ、正直に言うておかねばならぬことがある」

「もう一つ、でございますか」

以蔵が、涙を拭いながら、そう問い返した。瑞山は、深く頷いた。

「郷士たちに、『先生』と崇められ、頼りにされていく中で、わしは、いつしか、こう思うようになっておった。『わしが、やらねば』と。……皆が、わしのことを、見上げてくれる。その眼差しに応えねばと、いつしか、それ自体が、わしの中で、重い使命のようになっていったのだ」

その告白に、瑞山自身、驚いたように、少し目を伏せた。

「今にして思えば……。あれは、皆のためというよりも、わし自身が、その『先生』という役割から、降りることが、できなくなっておっただけなのかもしれん。皆に頼られることの心地よさに、わしもまた、酔うておったのだ」

その正直な自己分析は、瑞山にとって、これまでの人生の中で、最も苦く、そして、最も誠実な告白であった。柳川左門としての栄光の裏には、いつも、この「先生」という役割から逃れられなくなった、一人の不器用な男の姿があったのである。

「本当は……」

瑞山は、そこで、一度、言葉を止めた。それから、行灯の灯りに照らされた、富子の横顔を、そっと見つめた。

「本当は、ここで、道場を開きながら、富と、静かに、暮らしていきとうござった。それだけで、良かったのだ。……それだけで、十分すぎるほど、幸せであったはずなのだ」

その告白は、瑞山にとって、これまでのどの決意表明よりも、正直で、そして、切実なものであった。柳川左門としての栄光も、土佐勤王党の盟主としての誇りも、今のこの瞬間、瑞山の心には、何の意味も持たなかった。ただ、一人の男として、最も素朴で、最も根源的な願いだけが、その胸の内に、静かに、残されていたのである。

富子は、静かに、涙を拭った。以蔵もまた、その告白を、深く、噛み締めるように、聞いていた。

「先生……」

以蔵が、掠れた声で、そう呟いた。だが、その先の言葉は、続かなかった。ただ、三人の間に、深い、しかし、どこか温かい沈黙が、静かに流れていった。

富子が、膳の上の箸を、そっと以蔵の方へ押しやった。

「以蔵さん。……せめて、今宵だけは。半平太様と、心ゆくまで語り合うてくださいませ。……このぐる煮も、まだ、あの頃と、同じ味にございますよ」

その一言に、以蔵は、堪えきれず、大粒の涙を、ぽろぽろと零した。震える手で、ようやく箸を手に取り、そのぐる煮を、一口、口に運ぶ。

「……旨い。……旨いです、富子様」

その声は、あの若かった日の、無邪気な喜びとは、まるで違う、深い悲しみに満ちていた。だが、その味だけは、確かに、あの頃と、少しも変わっていなかったのである。

富子の穏やかな声に、以蔵はようやく箸を手に取った。だが、その手は最後まで、震えを止めることがなかった。

食事の合間、瑞山はふと、行灯の灯りに照らされた富子の横顔を見つめた。婚礼の夜、三つ指をついて「この富にお任せくださいませ」と告げた、あの若い娘の面影が、今もなお、その横顔のどこかに残っている。

(富。もし、わしがこの家を出て、二度と戻れなんだとしても……。おんしと過ごしたこの十数年だけで、わしの人生は、十分すぎるほど満たされていたのだ)

その想いは、言葉になることはなかった。ただ、瑞山の眼差しの奥に、静かに、確かに、宿っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ