第七十六話 空虚な風
高知に戻った瑞山を待っていたのは、牢獄に繋がれた平井収二郎、間崎哲馬、弘瀬健太の痛々しい姿であった。牢の格子越しに、瑞山は変わり果てた収二郎の顔を見た。頬はこけ、かつての快活な笑みの面影はどこにもない。
「先生……。すまんことをしました」
収二郎の掠れた声に、瑞山は言葉を失った。
「謝るな、収二郎。悪いのは、江戸で浮かれておったわしだ。おんしを、待たせすぎた」
「……先生」
収二郎は、格子の隙間から、痩せ細った手を差し出した。瑞山はその手を、両手でしっかりと包み込んだ。牢の冷たさが、収二郎の手からも伝わってくる。
「先生。もし、わしが……その、うまくいかんかったら。あの文箱、また作ってお渡しするき。もっと上手に作れるよう、あの世で修行してきますき」
収二郎は、痩せた頬で無理に笑って見せた。瑞山は、その言葉に応える術を持たなかった。ただ、握った手に、力を込めることしかできなかった。
「……馬鹿を言うな。おんしは、必ず生きて出る。わしが、必ず殿に――」
瑞山はすぐさま容堂に謁見し、髪を振り乱して三人の助命を嘆願した。
「殿! 彼らはただ、国を思う一心で動いたのです。何卒、何卒お慈悲を……!」
畳に額をこすりつけながら、瑞山は、これまでの人生で一度も見せたことのない姿を晒していた。剣の達人として、塾頭として、柳川左門として、常に威厳を保ち続けてきた男が、今はただの一人の、友のために泣き縋る人間であった。
だが、六月七日。無情にも三人の死罪が決定した。翌八日。収二郎たちは、瑞山の祈りも虚しく、冷たい白石の上で切腹して果てた。処刑の場に立ち会うことすら許されなかった瑞山は、その報せを、寓居の暗闇の中で聞いた。
(収二郎……。おんしの、あの馬鹿げた約束は、もう果たせぬのだな)
瑞山は懐から竹細工の文箱を取り出し、震える指でその粗い木目をなぞった。涙は出なかった。ただ、身体の中心にある何かが、静かに、しかし確実に、冷たく凍えていくのを感じていた。
夜が更けても、瑞山は寝所に入ることができなかった。行灯の火を見つめながら、収二郎が最後に見せた、あの無理な笑顔が、何度も何度も脳裏に蘇る。
(あやつは、死ぬ前も、わしを気遣うておった。……なぜだ。なぜ、わしを恨まなんだ。おんしを見殺しにしたのは、この武市半平太だというに)
その悔恨の底で、瑞山の中に、これまで一度も自分に許してこなかった、ある問いが、ついに、静かに、しかし確実に、頭をもたげ始めていた。
(殿は……。殿は、本当に、わしの言葉に、耳を傾けてくださったのだろうか)
これまで瑞山は、容堂との間に、確かな「心の交流」があると、一片の疑いもなく信じ続けてきた。七度の謁見。柳川左門という名の下賜。上士格への昇進。そのすべてが、容堂の深い信頼の証だと、瑞山は、信じて疑わなかった。
だが、あれほど必死に、涙ながらに嘆願したにもかかわらず、収二郎たちの死罪は、覆ることがなかった。容堂は、瑞山の願いを、まるで最初から、聞き入れるつもりなど、なかったかのように。
(……まさか。まさか、そのようなことが)
その疑念は、瑞山の胸の中で、次第に、拒みようのない、重い塊へと変わっていった。これまで自分が積み上げてきた「殿との絆」という物語が、実は、自分一人の、都合の良い思い込みに過ぎなかったのではないか。その可能性が、瑞山の魂の根底を、初めて、静かに、しかし決定的に、揺さぶり始めていたのである。
それでも彼は、まだ希望を捨てなかった。血の匂いが残る藩邸で、再び容堂に謁見し、渾身の藩政改革案を提出したのである。
「殿、今こそ土佐は一つになり、国難に当たらねばなりませぬ!」
熱弁を振るう瑞山。容堂はそれを、ただ黙って聞いていた。怒ることも、罰することもしない。ただ、瑞山の言葉をすべて、空虚な風として聞き流していた。
「……武市。もうよい。下がれ」
容堂の瞳には、かつての「柳川左門」への期待も、家臣への慈しみもなかった。あるのは、ただ、使い古した「道具」をいつ廃棄するかを思案する、冷徹な観察者の光だけであった。
その光を、瑞山は、初めて、正しく、目の当たりにした。これまで見ようとしなかった、いや、見ることを、自分自身が、頑なに拒み続けてきた、あの、氷のように冷たい真実を。
(……ああ)
瑞山の唇から、声にならない声が漏れた。
(わしは……。わしは、これまで、一体、何を信じておったのだ)
その瞬間、瑞山の中で、長年、揺るぎないと信じ続けてきた、容堂への信頼という名の柱が、音を立てて、崩れ落ちていった。それは、東洋暗殺の決断よりも、収二郎たちの死そのものよりも、瑞山という男の魂を、より深く、より根源的なところから、打ち砕く瞬間であった。
瑞山に連れられ、土佐に戻ってきた以蔵。彼は、高知の街を歩きながら、勝海舟から教わった「海の話」を必死に思い出そうとしていた。だが、目の前で収二郎たちが腹を切り、瑞山が空虚な主君に縋り付く姿を見るにつれ、その記憶は泥にまみれていった。
「……先生。収二郎さん、死にましたね」
瑞山の背中に向かって、以蔵が呟く。瑞山は答えない。ただ、懐の文箱を、上着の上からそっと握りしめているだけだった。
(先生。……勝先生なら、こうはならんかった。坂本さんなら、笑って海へ連れ出してくれた……)
以蔵は、腰の刀を強く握った。このまま、瑞山と一緒に地獄へ落ちていくのか。それとも、まだ「人」としての魂を守り抜けるのか。
土佐の夏空は、収二郎たちの命を吸い取ったかのように、恐ろしいほどに赤く燃えていた。瑞山が捧げ続けた「忠義」が、最も愛した同志たちの命を奪い、今や瑞山自身の首をも、音もなく締め上げようとしていたのである。
その夜、瑞山は、久しぶりに、新町の自宅で、富子と二人きりの時間を持った。行灯の灯りの下、瑞山は、しばらくの間、何も言えずにいた。富子は、そんな夫の様子を、静かに、辛抱強く、見守っていた。
「……富」
瑞山は、ようやく、震える声で、口を開いた。
「わしは……。わしは、大きな間違いを、していたようだ」
富子は、何も言わず、ただ、夫の言葉を待った。
「殿は……。殿は、わしが信じておったような御方では、なかったのやもしれぬ。この七年余り、わしが積み上げてきたと思うておった『絆』は、もしかすると、初めから、幻であったのかもしれぬ」
その告白は、瑞山にとって、これまでの人生で、最も重く、最も屈辱的なものであった。だが、瑞山は、その屈辱以上に、別のことを、恐れていた。
「富。……もし、わしのこの過ちが、取り返しのつかぬものであったなら。もし、殿の御心が、わしが思うておった以上に、冷たいものであったなら……。おんしにまで、迷惑をかけてしまうやもしれぬ」
その一言に、瑞山の声は、はっきりと震えた。
「わしは、これまで、殿への忠義を貫くことこそが、おんしを、そして皆を、幸せにする道だと、信じて疑わなんだ。……じゃが、その信念そのものが、間違うておったとしたら。わしは、おんし一人を、この危うい道連れに、してしまうことになるのやもしれぬ」
瑞山は、そこで、一度、大きく息を吸った。これから口にしようとしている言葉が、自分にとって、どれほど耐え難いものであるかを、瑞山は、すでに、悟っていた。
「……富。おんしにだけは、この先、どのようなことがあっても、累が及んではならぬ。じゃから、わしは……」
「半平太様」
富子が、瑞山の言葉を、静かに、しかし、はっきりと遮った。その声には、これまでにない、凛とした強さがあった。
瑞山は、口を噤んだ。富子の瞳が、まっすぐに、自分を見つめている。その瞳の奥に、瑞山がこれから言おうとしていた言葉――「離縁」という、あの残酷な二文字――を、すでに、見抜いてしまっているような、そんな気配があった。
「半平太様が、何を仰ろうとしておいでか、私には、分かっております。……ですが」
富子は、一度、深く息を吸い、それから、揺るぎない声で、こう告げた。
「私は、離れません」
その一言が、静かな部屋の中に、はっきりと、響き渡った。
「富……。じゃが、おんしに、これ以上の危険を、負わせるわけには……」
「半平太様」
富子は、再び、瑞山の言葉を、静かに遮った。
「私が、あなた様の元へ嫁いだあの日から、私の人生は、あなた様の人生と、一つになりました。……あなた様が、どのような過ちを犯されようとも、どのような危うい道を歩まれようとも、私だけは、決して、お側を離れは、いたしませぬ」
富子の瞳から、静かに、涙が溢れ始めた。だが、その声は、最後まで、揺らぐことがなかった。
「あなた様が、私を、この道連れにしとうないと、そう思うてくださること。それだけで、私は、十分に、幸せにございます。……ですが、その優しさに甘えて、あなた様の元を去ることだけは、私には、決して、できませぬ」
瑞山は、もはや、何も言うことができなかった。ただ、富子の、その揺るぎない覚悟に、深く、深く、頭を垂れるしかなかった。
「……富。すまぬ。……そして、ありがとう」
その言葉を、瑞山は、震える声で、ようやく、絞り出した。
土佐の夏空は、収二郎たちの命を吸い取ったかのように、恐ろしいほどに赤く燃えていた。瑞山が捧げ続けた「忠義」が、最も愛した同志たちの命を奪い、今や瑞山自身の首をも、音もなく締め上げようとしていた。だが、その暗闇の中でもなお、富子という一つの光だけが、瑞山の元を、決して離れることなく、静かに、しかし確かに、灯り続けていたのである。




