第七十五話 仲間を見殺しにして
「……先生。先生は、まだそんなことを言うがですか」
背後の闇から、以蔵の声がした。瑞山は振り返らなかった。振り返れば、以蔵の瞳の中に、自分を責める色を見つけてしまうのが怖かった。
(以蔵まで……。以蔵まで、そんなことを言うがか)
瑞山の胸に、深い衝撃が走った。これまで、誰よりも自分を信じ、慕ってくれていたはずの以蔵。その以蔵の口から、これほど厳しい言葉が飛び出すとは、瑞山は、想像すらしていなかった。
「収二郎さんたちは、先生を信じて待っちょったがです。でも、先生が江戸から持ち帰ったのは、自分の出世と、殿への言い訳だけやった……。だから、あの方たちは自分らで動くしかなかったがぜよ」
「黙れ、以蔵! おんしに何が分かる!」
瑞山の咆哮は、かつての威厳を失い、悲鳴のように虚しく響いた。それは以蔵に向けた怒りというより、自分自身の中にある、以蔵の言葉と同じ疑念を、力ずくで押し潰そうとする叫びであった。
(わしは……。わしは、藩を、殿を動かすことが、おんしたち皆のためになると、そう思うておったのだ)
その思いは、瑞山の中で、決して嘘ではなかった。だが、その思いを、瑞山は、これまで、どれほど、収二郎たちに、以蔵に、正しく伝えられていただろうか。
(もう少し、わしの考えを、分かってもらえておると……。いや)
その自問に、瑞山は、初めて、はっとした。
(……ちゃんと、伝えなんだのは、わしの方ではないのか)
その気づきは、瑞山にとって、これまでのどの絶望よりも、鋭く、深く、胸を突き刺すものであった。自分の理想を、自分の想いを、瑞山は、いつも、心の内だけで温め、それを言葉にして、目の前の者たちに、正しく分かち合う努力を、怠ってきたのではないか。柳川左門という名誉に浮かれ、自分の胸の内だけで、勝手に「皆のためだ」と信じ込み、それを、誰にも、確かめようとはしなかったのではないか。
「わしには分からん。難しいことは、何も分からん。……でも、勝先生なら、きっとこう言うたはずだ。『仲間を見殺しにして何が日本だ』とね」
以蔵の声には、これまでのような無条件の敬愛はなかった。ただ静かな、そして瑞山にとって何よりも痛い、失望の色があった。
「……以蔵。おんし、いつからそんな口を利くようになった」
瑞山は、ようやくそれだけを絞り出した。だが、答えは返ってこなかった。以蔵の足音が、遠ざかっていく。その足音が完全に消えるまで、瑞山は顔を上げることができなかった。
瑞山は、暗い部屋で一人、冷たくなった指先を見つめていた。自分が守ろうとした「忠義」が、最も大切にすべき「情」を切り捨てていく。柳川左門という名は、今や瑞山の心を凍らせる、呪いの言葉へと変わっていた。
(以蔵にまで、見限られたのか。……いや、まだだ。まだ、間に合う。わしがもっと、まことの心を尽くせば……)
そう思う端から、瑞山は自分の言葉の空虚さに気づいていた。以蔵の言葉も、収二郎たちの死出の旅も、もはや「まことの心」などという曖昧なもので取り返せる段階を、とうに過ぎていたのかもしれない。
(伝える術を、わしは、ついぞ、身につけられなんだ。……不器用な男よ、わしは)
「……すまん。収二郎。……すまん……」
瑞山の独白は、京都の冬の闇に吸い込まれ、誰に届くこともなく消えていった。
だが、その独白は、そこで終わらなかった。瑞山の口から、震える声が、堰を切ったように溢れ出した。
「……富子」
その名を呼んだ瞬間、瑞山の中で、これまで保ち続けてきた、柳川左門としての、盟主としての、あらゆる仮面が、音を立てて崩れ落ちた。
「富。……わしは、どうしたらよいがじゃ、のぉ」
瑞山は、誰もいない暗闇に向かって、まるで、目の前に富子がいるかのように、切実に語りかけていた。
「富、富子。……助けてくれ」
その声は、これまで誰も聞いたことのない、剥き出しの弱さそのものであった。柳川左門という名も、上士という肩書きも、今の瑞山には、何の意味も持たなかった。ただ、一人の、途方に暮れた男が、遠く離れた妻の名を呼び、その温もりを、必死に求めているだけであった。
「仲間を……。仲間を、死なせてしまうがじゃ」
その一言を口にした瞬間、瑞山の頬を、堪えきれなかった涙が、幾筋も伝い落ちた。柳川左門としての威厳の裏で、ずっと押し殺し続けてきた恐怖と、罪悪感と、孤独。そのすべてが、富子という名前を呼んだことで、堰を切ったように溢れ出したのである。
土佐で、その叫びを聞くことのできない富子は、今頃、静かに、夫の帰りを待っているはずであった。その事実が、瑞山の孤独を、より一層、深く、痛切なものにしていた。
京都の冬の夜は、瑞山の慟哭を、ただ静かに、冷たく、包み込んでいくばかりであった。




