第七十三話 絹の縄
しかし、その場に集まった同志たちの反応は、瑞山の歓喜とは裏腹に、冷え冷えとしたものだった。
「先生、おめでとうございます。これで名実ともに、藩の重鎮ですな」
祝辞ばかりではなかった。
「上士の列に加えることで、おんしを郷士たちの先頭から引き離し、山内家の家法という檻の中に閉じ込めようとしているのだ。容堂公は、おんしに自由な翼など与える気はない。これは、首を絞めるための絹の縄だ」
上士になるということは、藩の組織に完全に組み込まれることを意味する。それは草莽としての自由な活動を捨て、主君の指先一つで動く駒になることでもあった。
その言葉を発したのは、平井収二郎であった。かつて木屋町の夜、瑞山を京の女遊びに誘った、あの陽気な同志である。彼の声には、いつもの茶目っ気はなく、切実な焦りだけがあった。
「武市さん。おんしは、わしらの盟主だ。上士の列に組み込まれてしまえば、これまでのように自由に動けなくなる。それは、わしらの『頭』を、殿にそっくり差し出すのと同じことだ」
「おんしたちは、殿を疑いすぎている」
瑞山は静かに答えた。その声には、動揺の色は微塵も見えなかった。だが、収二郎の言葉が、瑞山の胸の奥にある、決して触れられたくない場所を、かすかに掠めたことも事実であった。
(絹の縄、か……)
一瞬、その言葉が瑞山の脳裏に居座った。だが、彼はすぐにそれを、己の心の外へと押し出した。
(否。収二郎、おんしにはまだ見えておらぬだけだ。殿のあの眼差しを、直接言葉を交わしたわしが、見間違えるはずがない。殿は変わられた。わしという楔が、山内家を、ひいては日本を大きく変えようとしているのだ。わしが上士として中枢に入れば、土佐勤王党の理想は、もはや夢ではなくなる)
その確信は、瑞山にとって、もはや疑う余地のない、揺るぎない真実であった。だが、その確信の強さこそが、瑞山の目を、周囲の現実から、完全に塞いでしまっていたのである。
部屋の隅、影に溶けるように座り、黙々と刀を拭いていた以蔵が、消え入るような声で問うた。
「……先生。わしも、上士になった先生に、付いていってよろしいがですか」
その声には、これまでの以蔵にはなかった、微かな不安の色が滲んでいた。あの江戸での一件以来、瑞山と以蔵の間には、以前とは違う、薄い膜のようなものが張られていた。
(先生は、あの頃のままの先生じゃろうか。それとも、もう、遠くへ行ってしもうたがか)
以蔵の胸には、龍馬や勝海舟との出会いを経て芽生えた疑念が、まだ、燻り続けていた。だが、その疑念を、以蔵は、あえて口にはしなかった。かつて泥まみれの顔を拭ってくれた師への未練が、まだ、以蔵をこの場所に、繋ぎ止めていたのである。
その問いに、瑞山は微塵の疑いもなく微笑んだ。
「以蔵。おんしは今まで通りだ。わしが上になれば、おんしの働きもさらに報われる。心配するな、わしはおんしを見捨てはせん」
瑞山はそう言って笑った。しかし、その笑顔は、かつて道場で門下生たちに向けた温かな「武市半平太」のものではなく、自らの勝利を確信し、権力の装飾を纏った「柳川左門」の仮面のようであった。以蔵はその笑顔をじっと見つめ、何かを言いかけて、結局は黙って刀を鞘に収めた。
(先生。……わしが本当に聞きたかったのは、そんな言葉やなかったがです)
その心の声は、瑞山には、決して届くことがなかった。
容堂が仕掛けた「前例なき昇進」。それは、瑞山の愚直なまでの忠義と、妻を想う私情をも逆手に取った、冷徹な離間策であった。瑞山が手に入れたのは、栄光ではなく、同志との絆を断ち切るための楔に過ぎない。
春の京都、鴨川の桜が夜風に散っていく。瑞山は、富子への手紙に最後の一行を書き加えた。
『近いうちに、きっと帰る。その時は、二人で心ゆくまで笑い合おう』
その一文を書きながら、瑞山の胸には、富子への想いが、これまでのどの瞬間よりも、強く込み上げていた。
(富。おんしにだけは、この喜びを、正しく分かってもらえるはずだ。おんしだけは、わしを、いつも正しく見てくれておったのだから)
自分の勝利が、死という結末への加速装置であることに、瑞山はまだ気づいていなかった。山内容堂が放った最後の一手は、音もなく、着実に彼の命脈を絡め取っていたのである。




