第七十一話 閉ざされていた門
文久三年、春。京都を彩る桜は、狂い咲く時代を謳歌するかのように爛漫と咲き誇っていた。
江戸での大任を終え、再び京都の地を踏んだ瑞山を待っていたのは、予想だにしない吉報であった。入京以来の目覚ましい功績、そして江戸城での将軍拝謁という前代未聞の働きが認められ、藩から「上士格留守居組」への昇進が命じられたのである。さらに三月には、京都の外交を一手に担う「京都留守居加役」という要職にまで任じられた。
土佐藩という、石のように強固な階級社会において、白札郷士が上士の列に加わる。それは建国以来、ただの一度も無かった奇跡であった。
その報せを受け取った瞬間、瑞山の脳裏に真っ先に浮かんだのは、天下国家のことではなかった。かつて雨の日、傘も差せず、上士の馬に泥を撥ねられていた老いた郷士の背中。そして、正月に裏門から通され、冷えた板間で何時間も待たされた、あの屈辱の記憶であった。
(あの日々が、今、終わったのだ)
この昇進が、実は、目障りな郷士たちから瑞山を静かに切り離し、勤王党という組織そのものを内側から瓦解させるための、容堂の周到な策略の一環であることを、瑞山は、露ほども疑っていなかった。長年、この一つの瞬間だけを夢見て耐え続けてきた瑞山にとって、この栄誉は、あまりに眩しすぎた。その眩しさが、瑞山の目から、周囲で静かに進行している事態を見通す冷静さを、完全に奪い去っていたのである。
三条木屋町の寓居、行灯の光に照らされた瑞山は、高揚を抑えきれぬまま、故郷の富子へ向けて筆を走らせた。
『富。驚くべき沙汰が下った。この瑞山、ついに上士の列に加わることとなった。かつて二人で、身分の壁に涙した夜を覚えているか。おんしをこれ以上、後ろ指さされるような境遇には置かぬ。殿は、わしの真心を、その深い慈愛ですべて包み込んでくださったのだ』
筆を運ぶ瑞山の胸は、確かな勝利の予感に震えていた。
(……勝ったのだ。わしは、ついにこの手で、閉ざされていた門をこじ開けた。これまで幾多の誹謗中傷に耐え、泥を啜る思いで殿に尽くしてきた。そのすべてが、今この瞬間に報われた。殿は、この武市半平太を真の臣として認めてくださったのだ!)
瑞山の脳裏には、質素な暮らしの中で不平一つ言わず、黙々と自分の身の回りを整えてくれた富子の、細くしなやかな指先が浮かんでいた。地震で家が崩れたとき、瓦礫の中で気丈に「命さえあれば、道場はどこにでも開けます」と言った、あの声。百二十人の門弟たちの世話に明け暮れ、汗と埃にまみれながらも、決して弱音を吐かなかった、あの背中。
(富。おんしは、あの家格の低さゆえに、どれほど肩身の狭い思いをしてきたことか。武市の家に嫁いだというだけで、上士の妻たちから陰口を叩かれたこともあったろう。おんしは決してわしに愚痴をこぼさなんだが、わしには分かっていた)
瑞山の筆は、その記憶を辿るように、一層力強く紙の上を滑った。
(富、おんしの辛抱も今日までだ。これからは、おんしを軽んじる者など誰一人おらん。上士の妻として、堂々と胸を張って高知の街を歩くがいい。今度こそ、おんしに美しい着物の一枚も贈ってやれる。それこそが、わしが夢見た『新しい世』の姿なのだ)
瑞山は筆を置き、しばし目を閉じた。瞼の裏に浮かぶのは、これから訪れるはずの、輝かしい未来の光景であった。上士の妻として堂々と歩く富子。その隣に立つ、もはや誰にも「郷士風情」と蔑まれることのない自分自身。その光景は、瑞山がこれまで耐えてきたすべての屈辱に対する、何よりの報いのように思えた。
その喜びに酔いしれるあまり、瑞山は、この昇進の報せの陰で、同志たちの間に、すでに深い亀裂と不安が広がり始めていることに、まったく気づいていなかった。




