第七十話 選別
文久三年一月。江戸での謹慎という長い眠りから覚めた山内容堂が、ついに京都へその姿を現した。
その報せが土佐藩邸に届いたとき、空気は一変した。長らく謹慎の身にあった老公の帰還は、単なる主君の帰洛ではない。それは、京で好き放題に振る舞ってきた勤王党という「熱」に、ついに冷徹な「現実」が牙を剥く瞬間であった。
藩邸の廊下を、慌ただしい足音が行き交う。上士たちは、久方ぶりに戻る主君を迎える支度に追われながらも、誰もがどこか怯えたような顔をしていた。この一年余りの間に、藩内で何が起きていたか――東洋の暗殺、天誅の嵐、そして郷士たちの急激な台頭。それらすべてを、容堂は江戸で知っていたはずである。
容堂は、藩邸に入るなり、すでに耳に入れていた青蓮院宮への接触の一件について、側近から詳細な報告を受けた。その顔には、怒りというより、深い侮蔑の色が浮かんでいた。
「……小僧どもが。わしの目の届かぬところで、朝廷の威光を借り、藩を動かそうとしただと」
側近の一人が、恐る恐る言葉を継いだ。
「はっ。平井収二郎、間崎哲馬、弘瀬健太らが中心となり、青蓮院宮様より令旨を賜り、豊資公へ藩政改革を迫ったとのことにございます」
「豊資公へ、だと。……先代を担ぎ出してまで、わしの頭を飛び越えようというわけか」
容堂は、手にした扇を静かに閉じた。その仕草には、激高よりもむしろ、底冷えのするような静けさがあった。だが、その静けさの奥では、容堂自身にも認めがたい、古い傷が疼いていた。
(よりによって、豊資公か……)
容堂の胸に、若き日から拭い去れずにいた、ある感情が、ふと蘇る。容堂は、本来、山内家の宗家を継ぐべき血筋ではなかった。分家の出であった容堂が、思いがけぬ巡り合わせで藩主の座に就いたことは、当の容堂自身が、誰よりもよく分かっていた。正統な血を引く豊資という存在は、容堂にとって、生涯、消えることのない、密やかな引け目の象徴であった。
(あの若造どもは、それを知ってか知らずか、よりによって豊資公の名を担ぎ出しおった。……わしという主君を、正統性のない、軽んじてよい存在だとでも思うておるのか)
その屈辱は、単なる「越権行為への怒り」という次元を、遥かに超えていた。郷士という、身分の最も低い者たちにまで、自分の最も深い傷を、無意識のうちに抉られたような感覚。それが、容堂の怒りを、より一層、根深く、そして執拗なものへと変えていったのである。
(郷士風情までもが、わしを、こうも容易く、軽んじられると思うておるのか。……許さん)
容堂の胸の内では、静かな、しかし確かな決意が固まりつつあった。
(目障りな郷士どもが。……いつまでも、あの武市の陰に隠れて、好き勝手にのさばりおって)
(そろそろ、あやつらを、武市とは切り離してくれようか。武市一人だけを、この手の内に握っておけば、あとの雑魚どもなど、いくらでも料理のしようがある)
その考えは、容堂にとって、単なる懲罰以上の、周到な戦略であった。土佐勤王党という組織全体を、真正面から潰そうとすれば、かえって郷士たちの反発を招く。だが、瑞山という頭目だけを特別扱いし、他の者たちを切り捨てれば、組織はおのずと、内側から瓦解していくはずであった。
容堂にとって、それは家臣としてあるまじき「越権」であった。土佐勤王党が他藩の志士と交わり、公卿と結託して藩の統制を離れていることに、容堂はすでに激しい不快を抱いていたが、この一件はその不快を、明確な「処断」へと変える決定的な引き金となった。
数日後、藩邸の広間に、勤王党に連なる者たちが集められた。容堂は上座から、ゆっくりと一同を見渡した。その視線が、瑞山の顔の上でだけ、わずかに和らいだことに、誰もが気づいていた。
「……武市を除き、勤王党の者どもに対し、他藩士との政事交際を一切禁ずる」
容堂の口から放たれたその一言は、単なる規律の通達ではなかった。それは、瑞山という一点だけを特別に浮き上がらせ、他の同志たちすべてを、影の中へ突き落とすための、周到に練られた「刃」であった。
広間に、微かなどよめきが走った。誰もが、その言葉の意味を測りかねていた。だが瑞山だけは、その通達を、むしろ自分への信頼の証として受け止めていた。
(殿は、わしにだけは、これまで通りの働きを許してくださる。それはつまり、わしという男を、他の誰よりも信じておられるということだ)
瑞山が受け取ったその通達は、あまりに残酷な「選別」であった。自分だけを上士として、あるいは「柳川左門」として特別扱いする一方で、苦楽を共にした同志たちの口を封じ、孤立させる。容堂は、瑞山の「忠義」という首輪を優しく撫でながら、その手足をもぎ取ろうとしていた。
これから先、瑞山がどれほど誠を尽くそうとも、彼を支えてきた同志たちの輪は、静かに、しかし確実に、瑞山の手の届かぬところで解体されていくことになる。そして瑞山自身は、その解体が始まっていることに、まだ何一つ気づいていなかった。




