第六十八話 迷い言
しかし、その陶酔のすぐ隣には、どす黒い現実が、音もなく口を開けていた。かつて親友の坂本龍馬は、瑞山にこう警告していた。
「武市さん、あんたは殿の笑顔を信じちゅうが、あの御仁は人を殺す時にこそ一番美しく笑うがぜよ。七回も会うたということは、七回、おんしの首の切り際を確かめられたということながだ」
その言葉を思い出すたび、瑞山の胸の奥で、小さな棘のようなものが疼いた。龍馬という男は、飄々としているようでいて、時に誰よりも人の本性を見抜く目を持っている。士学館の頃から、それは瑞山自身がよく知っていることであった。
(龍馬……おんしがそう言うのなら、万が一ということも、あるのやもしれぬ)
行灯の火を見つめながら、瑞山はほんの一瞬、その可能性に思いを馳せた。もし、あの七度の謁見のすべてが、慈愛ではなく値踏みであったとしたら。もし、自分が信じてきた主従の絆が、幻に過ぎなかったとしたら――。
その考えは、瑞山の背筋を冷たく撫でた。だが、その冷たさに長く留まることを、瑞山の心は許さなかった。
(否。……否だ。わしがこれまで積み上げてきた誠が、まやかしであるはずがない。龍馬は、あの自由すぎる性分ゆえに、誰も彼もを疑いの目で見てしまうのだ。あやつには、殿の御心の奥深さが、分かっておらぬだけなのだ)
瑞山は自らにそう言い聞かせ、龍馬の言葉を頭の隅へと押しやった。一度そう決めてしまえば、あとは早かった。疑いという種子は、瑞山の心という固い岩の上では、根を張る間もなく、乾いた風に吹き散らされていく。
瑞山はその言葉を「迷い言」として切り捨てた。自分の忠義が、あの聡明な容堂公に通じないはずがない。自分たちの絆は、もはや絶対のものであると。
「……ふふ、富、楽しみにしておれ」
瑞山は満足げに手紙を畳み、丁寧に封をした。だがすぐには、それを文箱に仕舞うことができなかった。指先で、封をした紙の厚みを、何度も確かめるように撫でる。
(富。おんしと所帯を持った頃、わしらには何もなかった。祖父母を看取り、地震で家を失い、それでもおんしは一度も、不平を漏らさなんだ。……あの頃のわしを知っている者は、もうこの世に、おんしくらいしかおらぬのかもしれぬ)
瑞山の脳裏に、鏡川の水面に揺れる白梅の枝を思い出させたあの婚礼の夜が、鮮やかに蘇った。あの日、富子は三つ指をつき、「この富にお任せくださいませ」と静かに告げた。あれから十数年、自分はどれほど遠くまで来てしまったのだろう。柳川左門という名も、七回の謁見という栄誉も、あの婚礼の夜には想像すらしなかった場所だ。
(富。おんしだけは、わしがどれほど遠くへ行こうとも、変わらずそこにいてくれる。……だからこそ、わしはこの誉れを、真っ先におんしに届けたいのだ。おんしにこそ、知ってほしいのだ)
その手紙をしたためる少し前、瑞山は、宿所を訪れた龍馬に、この感激を、思わず語っていた。
「龍馬。おんしも、一度、殿にお目にかかってみればええ。あの深い御心、あの器の大きさ。会えば、必ず分かるはずじゃ」
瑞山は、まるで自分の手柄のように、誇らしげにそう勧めた。だが、龍馬は、その熱の入った誘いを、いつもの調子で、あっさりとかわした。
「……わしは、ええわ。忙しいきね」
「な……。殿にお目通りできるという、これほどの機会を、忙しいの一言で断るのか」
瑞山は、思わず、拍子抜けしたような顔をした。龍馬は、悪びれもせず、ひらひらと手を振った。
「武市さんが、そこまで惚れ込むお方なら、きっと、立派なお人柄なんじゃろう。じゃが、わしには、わしの、会わねばならん人らが、他にもぎょうさんおるがじゃ。勝先生やら、異国の商人やら……。時は、限られちゅうきね」
その返答に、瑞山は、一瞬、言葉に詰まった。
(この男は……。主君への拝謁よりも、まだ見ぬ他の縁を選ぶというのか)
瑞山にとって、主君に拝謁するという機会は、何にも代えがたい、最高の栄誉であった。だが、龍馬にとっては、それすらも、数ある選択肢の一つに過ぎないらしい。その価値観の違いに、瑞山は、改めて、龍馬という男の掴みどころのなさを、思い知らされたのであった。




