第六十六話 忠実な目
品川の山内家下屋敷。奥書院の空気は、張り詰めた緊張感の中に、どこか湿り気を帯びた重苦しさが漂っていた。
瑞山は、柳川左門としての公服の裾を泥に汚しながら、容堂の前に平伏していた。額を畳に激しく擦りつける音が、静寂の中で異様に大きく響く。
「……殿! 何卒、何卒お聞き届けを。長州の久坂らが、横浜の異人館に火を放とうとしております。それも、わが藩の弘瀬健太らを抱き込んでの暴挙。今、これをお止めせねば、山内家は賊軍の汚名を着せられ、日本は戦火の泥沼に沈みまする!」
容堂は、手にした杯をゆっくりと回し、琥珀色の酒面を眺めていた。平伏する瑞山の背を、蛇がなぞるような、静かで底知れぬ眼差しで見下ろしている。
「……武市。そう、焦るな。おんしのその一途さ、相変わらず胸を打つものよ」
容堂の声は驚くほど優しく、穏やかだった。瑞山は微かに肩の力を抜いたが、その直後に続いた言葉は、真綿で首を絞めるような冷徹さを孕んでいた。
「久坂らが動くか。……ふむ。おんしが密かに探り、こうして知らせに来てくれたおかげで、わが藩は火の粉を被らずに済む。柳川左門という大層な名を貰うて、いささか朝廷の仕事に感けておるかと思うたが……やはりおんしは、わしの忠実な『目』よのう」
「殿……! 勿体なきお言葉。私はただ、殿の、そして土佐の行く末を案じればこそ!」
平伏したまま返す瑞山の声は、心なしか震えていた。それは感涙のためだと、瑞山自身は思い込もうとしていた。だが、その震えの底には、認められたい一心で他人の言葉に縋りつく、剥き出しの弱さが確かに潜んでいた。
「分かっておる、分かっておる。おんしがいれば、京の公卿共の腹の内も、過激な長州の動きも、手に取るように分かる。これほど頼もしいことはない」
容堂はふっと口角を上げ、杯を差し出した。瑞山は跪いたまま、その杯を押し頂く。その手が、僅かに揺れて酒面に小さな波紋を作ったことに、瑞山自身は気づいていなかった。
「武市。おんしを江戸へ連れてきて、七度も目通りを許したのはな……おんしという男の『誠』を、わしが誰よりも信じておるからよ。長州にはわしから釘を刺しておこう。おんしは、これからもわしの影となり、盾となり、その『柳川左門』の名を存分に使い、天下の動静をわしに伝えよ。よいな」
「はっ……! この命、捨ててお守りいたしまする!」
瑞山の瞳に、狂おしいほどの歓喜の光が宿った。殿は、わしの苦渋の決断を理解してくださった。密告という泥を被ってまで家を守ろうとしたわしを、かつてないほどに評価してくださっている――。
「……うむ。下がってよいぞ。雪がひどくなってきた、風邪など引かぬようにな」
容堂は慈しむような声で見送った。
下屋敷を出た瑞山の足取りは、雪の中でも軽やかだった。
(殿は、すべてお分かりくださった。……やはり、わしの主君は、誰よりも聡明でいらっしゃる。この命を懸けてきたこと、決して間違うてはいなかったのだ。わしが良いことをしたと、正しく信じてくださるのは、天下広しといえど、我が殿おひとりだけなのだ)
胸の奥から込み上げる熱い感情が、冬の寒さを忘れさせた。その足取りの軽さは、まるで幼子が親に褒められた時のような、無邪気なまでの喜びに満ちていた。柳川左門という重い名を背負う男の、これが素顔であった。
一方、瑞山が去った書院では、容堂の顔から一切の笑みが消えていた。彼は空になった杯を畳に置き、傍らに控えていた側近に低く呟いた。
「……見たか。あれが『忠義』に酔いしれる男の顔よ」
(郷士ごときが、いい気になりおって。何様のつもりだ、武市。……東洋の恨み、いつか必ず、この手で晴らしてやるからな)
容堂の胸の内では、笑顔の下で燃え続ける憎悪が、静かに、しかし確実に、その火勢を増していた。だが、その憎悪の隣で、容堂の頭は、常に冷静な計算を働かせ続けていた。
(……じゃが、こやつの忠誠心は、まだ使えるかもしれぬの)
容堂は、瑞山が下がっていった障子の方角を、じっと見つめた。あれほどまでに、容易く友を売り、命を懸けて自分に尽くそうとする男。その愚直なまでの忠誠は、憎むべき性分であると同時に、これほど便利に使い倒せる道具も、そうは見つからないという、容堂の冷徹な確信でもあった。
(あやつが、これほどまでにわしを信じておるうちは、放っておいても、勝手に働いてくれるであろう。長州の動きも、朝廷の腹の内も、あやつを通せば、いくらでも探れる)
その打算が、容堂の中で、憎悪と実利という、二つの天秤の間で、静かに揺れ続けていた。今すぐに、この憎き男の首を刎ねてやりたいという衝動を、容堂は、あくまで、まだ、抑え込んでいたのである。
「柳川左門、か。今はまだ、あの男に京の政界をかき回させておけ。利用できるだけ使い潰し、用が済めば……その時に、相応の場所へ戻してやればよい」
(せいぜい、今のうちに励むがいい。おんしが土佐にとって使い物になる間は、な。……だが、その値打ちが尽きた時は――)
容堂は、口の端をわずかに歪め、独り、闇の中で低く笑った。
「……ふふ」
その笑い声は、誰にも聞かれることなく、書院の冷えた空気の中に静かに溶けて消えた。
容堂は再び酒を注ぎ、窓の外の雪を眺めた。その瞳には、盤上の駒を冷徹に選別する権力者の冷たさだけが宿っていた。
「先生、殿は何と……」
影から現れた以蔵が、瑞山の晴れやかな顔を見て、言葉を呑み込んだ。
「……以蔵。殿は、すべて分かってくださった。わしを、信じておられる。……行こうか。今夜の雪は、どこか清々しいのう」
瑞山は、空ろなまでに澄んだ瞳で、江戸の夜の向こうを見つめた。己にかけた呪文のようなその「光」が、いつか自分を焼き尽くす烈火に変わることなど、今の彼は露ほども疑っていなかった。雪は、瑞山の足跡を優しく、しかし確実にかき消すように、音もなく降り積もっていった。




