第六十五話 賢くなりすぎた男
江戸の宿所に、雪の予兆を孕んだ冷たい風が吹き込んでいた。長州の久坂玄瑞と高杉晋作が、瑞山の元を訪れたのはその刻限である。久坂の目は、三条木屋町の喧騒の中にいた時よりも、さらに鋭く、飢えた狼のような光を放っていた。
「武市さん。……もう、言葉の遊びは終わりにせんか」
久坂は、瑞山の目の前にある「柳川左門」としての公文書を忌々しそうに睨みつけ、身を乗り出した。
「横浜の異人館を、根こそぎ焼き払う。高杉がすでに腕利きの若手を十数名集めておる。……火を放てば、幕府の腰抜け共も、朝廷の煮え切らぬ公卿共も、否応なしに動かざるを得ん。日本を、真の神国に戻すための『聖なる火』だ。おんしたち土佐も、共に燃えてくれ」
瑞山の隣で、以蔵の身体が微かに震えた。それは武者震いではなく、久坂から発せられる烈烈たる殺気への本能的な反応だった。
「久坂殿。……その計画、あまりに短慮だ」
瑞山は、努めて冷静に言葉を返した。その手は膝の上で、拳の形をわずかに強張らせていた。久坂の視線の圧に晒されるたび、瑞山は無意識に、袴の皺を指先で伸ばすような仕草を繰り返していた。それは緊張を悟られまいとする、彼自身にも自覚のない癖であった。
だが、久坂はそれを遮るように畳を拳で叩いた。
「短慮だと! おんしはいつから、そんなに腑抜けたことを抜かすようになったのだ! 京ではあんなに鮮やかに天誅を指揮しておった男が、江戸城で将軍の顔を拝んだ途端、牙を抜かれた飼い犬になったか!」
高杉晋作が、皮肉めいた笑みを浮かべて口を開く。
「武市さん。おんしが大事にしているその『柳川左門』という名、朝廷から下賜された宝物かもしれんが、我らから見れば、おんしを縛り付ける鎖にしか見えんぜよ。……弘瀬健太はどうなる。あやつは、すでに我らと血判を交わしておるのだぞ」
瑞山の背筋に、氷を流し込まれたような衝撃が走った。同志・弘瀬までもが、自分に無断で長州の暴挙に加担している。
「……弘瀬が……」
その声は、自分でも驚くほど掠れていた。瑞山は咳払いを一つして、その掠れを誤魔化そうとした。
「そうだ。あやつは、おんしの『待て』という言葉に、もう愛想を尽かしておる。……武市さん。今ここで加わらねば、土佐は日本の夜明けに置いていかれるぞ。それとも、山内家という古い殻を抱えたまま、幕府と共に心中する気か!」
久坂の罵声は、瑞山の「誠」を抉るような鋭さを持っていた。瑞山は、行灯の火に照らされた己の掌を見つめた。かつてこの手で、日本の未来を描こうと誓った。だが、今の自分には、長州のような「個」の暴発は許されない。
(久坂殿の言うことは、正しいのかもしれぬ。……じゃが、わしは、土佐という船を、丸ごと動かさねばならぬのだ。それこそが、真に土佐のためになる道だと、わしは、今も、信じておる)
その信念は、瑞山の胸の内で、久坂への罪悪感と分かちがたく絡み合いながらも、なお、確かな芯として、その心を支えていた。
「……済まぬ、久坂殿。今のわしには、土佐という家がある。殿という主君がおられる。……その計画に、土佐は乗れぬ」
「……そうか」
久坂は、吐き捨てるように立ち上がった。その瞳には、かつての友への情愛など微塵も残っていなかった。
「武市半平太。……おんしは、あまりに『賢く』なりすぎた。……高杉、行くぞ。もう、この部屋には『志士』はおらん。おるのは、主君に媚びる役人だけだ」
二人が嵐のように去った後、部屋には重苦しい沈黙が残された。瑞山は、久坂の言葉を一つひとつ噛み締めていた。裏切り者、腑抜け、飼い犬。浴びせられた罵言は、すべて自分の魂を削る刃であった。
(久坂殿……分かっておる。おんしの真っ直ぐな想い、わしに分からぬはずがないがじゃ。わしも、おんしと共に異人を斬り、この国を清めたい……。……だが、わしには、捨てられぬものがあるのだ)
瑞山は、震える膝を押さえて立ち上がった。その震えを、以蔵に気取られぬよう、瑞山は袴の裾を払う動作の中に、そっと隠した。
友を裏切り、密告者の汚名を着てでも、山内家を守らねばならない。それが、武市瑞山が選んだ、あまりに孤独で、あまりに無惨な「忠義」の形であった。
(この密告で、殿は、必ず、わしの覚悟をお認めくださるはずだ。友を売ってまで、山内家を守ろうとした、この忠義の重さを)
その確信は、瑞山の胸の奥で、久坂への罪悪感の痛みと共に、なおも、消えることなく燃え続けていた。容堂に認められたいという渇望と、土佐のためになるという信念。その二つが、瑞山を、この孤独な決断へと、突き動かしていたのである。
「……以蔵。品川へ行くぞ」
「……先生、本当に……殿へ報せるがですか」
以蔵の問いに、瑞山は答えなかった。ただ、その瞳には、自分の「汚れ」を引き換えにしてでも、主君・容堂に認められたいという、狂おしいほどの情念が宿っていた。
宿所の外では、乾いた雪が舞い始めていた。それは、かつて三条木屋町の縁側で笑いながら傘を拒んだ時の雨とは違い、瑞山の心をどこまでも冷たく、白く、凍てつかせていく雪だった。




