第六十四話 組を割く策
品川の藩邸、奥まった一室。容堂は、瑞山への「上士格」の沙汰を記した書状の控えを、静かに眺めていた。
(郷士どもを束ね、あれほどの熱を生み出した男よ。……その力を、真正面からへし折ろうとすれば、かえって奴らを頑なにするだけだ)
容堂の脳裏には、これまでに見てきた、幾多の一揆や騒動の記憶があった。徒党を組んだ者たちを、力でねじ伏せようとすれば、彼らはかえって結束を固め、より頑強な抵抗へと転じる。だが、その頭目を、こちら側へ引き抜いてしまえば――。
(頭目一人を、上士という「こちら側」の身分に取り込んでしまえばよいのだ。そうすれば、あやつを慕う郷士どもは、いずれ、こう思うようになる。「武市様は、我らを捨てて、上士の側へ渡ってしもうた」と)
その考えは、容堂にとって、東洋を失った憎悪の発露であると同時に、藩主として、冷徹に磨き上げられた、統治の知恵でもあった。武市瑞山という男一人を「敵」として処断するのではなく、まず、彼を郷士たちの輪の中から、静かに引き剥がす。その上で、瑞山が孤立したところを見計らって、初めて、本当の裁きを下せばよい。
(郷士どもの不満の芯は、武市という男の存在によって、辛うじて一つに束ねられておる。……その芯さえ抜いてしまえば、あとは、放っておいても、勝手に瓦解していくものよ)
容堂は、そう独りごちながら、静かに酒を口に運んだ。
(……武市を、今すぐに殺すことなど、容易いことだ。あやつ一人の首を刎ねることに、何の障りもない)
その考えは、容堂の中で、いつでも取り出せる、冷たい刃のように、常に懐に潜ませたものであった。だが、容堂は、その刃を、今はまだ、鞘に収めたままにしていた。
(じゃが……。今、あやつを殺せば、郷士どもの怒りが、一気に噴き出すやもしれぬ。あやつには、まだ、利用できる価値がある。……朝廷や幕府との交渉の駒として、あやつほど、便利に動く手足も、そうはおらぬ)
その打算が、容堂の中で、憎悪と冷静な計算を、絶えず天秤にかけさせていた。感情のままに、今すぐ瑞山を葬り去りたいという衝動と、まだ彼を道具として使い倒したいという理性。その二つの間で、容堂は、常に、静かに揺れ続けていたのである。
(もう少し、使い倒してやろう。武市よ、おんしがその「誠」とやらを振りかざし続ける限り、余は、おんしを、いくらでも便利に使わせてもらうぞ)
上士格への昇進という「恩賞」は、瑞山への評価であると同時に、郷士たちの結束を、内側から静かに切り崩すための、周到な一手であった。
(武市よ。おんしは、その栄誉を、さぞ誇らしく受け取ったであろう。……だが、その名誉こそが、おんしを、これまで支えてくれた者たちから、少しずつ、引き離していくのだ)
容堂の口元に、皮肉な笑みが浮かんだ。この策略が、いずれ、瑞山自身の首を絞める鎖になることを、容堂は、すでに、はっきりと見通していたのである。
(東洋。……見ておるか。おんしを殺した男は、今、自らが手にした栄誉によって、自らの足場を、少しずつ、失っていくのだ。これこそが、余なりの、おんしへの弔いよ)
その夜、容堂は、珍しく、心地よい眠りについた。武市瑞山という男を、いかにして、その築き上げた組織ごと、静かに、そして確実に、崩壊させていくか。その絵図が、ようやく、容堂の中で、明確な形を成し始めていたのである。




