第六十二話 海へ行かんか
第六十二話 海へ行かんか(完全版)
瑞山の宿所を出た以蔵は、夜の静寂の中、あてもなく江戸の街を彷徨った。頭の中では、二人の男の声が渦巻いている。
「いい目をしてるね」と、一人の人間として笑いかけてくれた勝海舟。「おんしはわしの言うことだけを聞いていればいい」と、命じられた通りに動く道具として突き放した武市瑞山。
以蔵の胸は、張り裂けそうだった。これまで自分を支えてきたのは、先生に褒められたい、先生の役に立ちたいという一念だけだった。だが、その「先生」が見ているのは、自分ではなく、自分の振るう「刀」でしかなかったのだ。
気がつくと、以蔵は龍馬が滞在している桶町の千葉道場へと足を向けていた。
「……坂本さん。龍馬さん、おるかえ」
暗がりに座り込んでいた以蔵の声は、今にも消え入りそうなほど震えていた。奥から出てきた龍馬は、以蔵の顔を見るなり、すべてを悟ったようにその隣に腰を下ろした。
「……龍馬さん。わし、もう分からんがぜよ」
以蔵は膝を抱え、絞り出すように言葉を零した。
「勝先生は、わしが人を斬ったら『いかん』と言ってくれた。わしの心を心配してくれた。……でも、武市先生は……先生は、わしを『手足』じゃと言うた。わしの言うことは聞かんでいい、ただ従えと」
以蔵の目から、大粒の涙が溢れ、江戸の泥土を濡らした。
「わしは、先生のために、汚れ仕事も、天誅も、みんなやってきたがです。先生の喜ぶ顔が見たかった。……でも、今の先生は、わしのことなんか見ちゃあせん。柳川左門という偉い名前と、自分の描いた絵図のことしか……」
龍馬は何も言わず、ただ黙って以蔵の背中を大きな手でさすり続けた。その手の温かさが、以蔵には痛いほどに染みた。
「龍馬さん。……わし、どうしたらいいがぜよ。先生を裏切るのは、死ぬより辛い。でも、あんな風に『物』みたいに言われるのは、もっと、もっと……胸が痛いがです」
龍馬は、冬の澄んだ夜空に浮かぶ月を見上げ、静かに口を開いた。
「……以蔵。おんしは、よう頑張ったぜよ。武市さんへの義理も、勤王党への忠義も、おんしは十二分に果たした」
龍馬の声は、凪いだ海のように穏やかだった。
「武市さんは、あの大義という重い看板を背負いすぎて、人の心が分からんなっちゅうがだ。……以蔵。もう、あんな暗い部屋に戻らんでもええ。わしと一緒に、海へ行かんか」
「……海へ?」
「そうよ。勝先生の下で、船を操る術を学ぶがだ。海の上じゃあ、武市さんも、柳川左門も、上士も郷士も関係ない。……おんしは『岡田以蔵』として、自分の力で生きていける。勝先生なら、おんしを絶対に捨てはせん」
以蔵は、龍馬の言葉を噛み締めるように、じっと自分の手を見つめた。人を斬り、血に染まってきた手。だが、その手を「舵を握るために使え」と言ってくれた男たちが、今、目の前にいる。それでも、以蔵の心は、簡単には定まらなかった。
(先生を、見捨てることなど、できるがじゃろうか)
瑞山への未練が、以蔵の胸を、なおも強く締め付けていた。あれほど冷たく突き放されても、あの人が自分を拾い、道場で一から鍛えてくれた恩は、決して消えるものではなかった。
だが、その葛藤とは別に、以蔵には、もう一つ、龍馬にはまだ言えずにいる、切実な問題があった。
「……坂本さん。実を言うと、わし……」
「なんじゃ、以蔵」
「わし、船に、酔うがです」
その一言に、龍馬は、しばし呆気に取られたような顔をした。
「……船に、酔う?」
「はい。以前、参勤交代の御一行について、船に乗せてもろうたことがあるがですが……その時、あまりの気持ち悪さに、三日三晩、寝込んでしもうたがです。……それに、泳ぎも、あまり得意ではのうて」
以蔵は、恥ずかしそうに、俯きながら、そう白状した。人斬りとして恐れられ、剣の腕では誰にも引けを取らない男が、船と海には、これほどまでに弱い。その不釣り合いな告白に、龍馬は、思わず、大きな声で笑い出した。
「がはは! そりゃあ、面白いのう! 人斬り以蔵が、船には敵わんとは!」
「わ、笑わんでください……。真剣に、悩んじゅうがです」
「なんの、心配することはないぜよ。船酔いなんぞ、三日も乗れば、慣れてしまうもんじゃ。海の上で暮らす者は、皆、最初はそうやって、海に体を慣らしていくがぜよ」
龍馬は、以蔵の肩を、力強く叩いた。
「泳ぎも、これから覚えればええ。……以蔵、案ずるな。海は、広い。船に酔おうが、泳ぎが下手じゃろうが、おんしを、拒みはせんき」
その言葉に、以蔵は、少しだけ、肩の力を抜いた。深刻な葛藤の中に、ふと差し込んだ、この滑稽なやり取りが、以蔵の張り詰めていた心を、わずかに和らげていた。
「……坂本さん。わしに、そんな資格があるがでしょうか」
「資格なんぞ、海が勝手に決めてくれるわ。……明日、もう一度勝先生のところへ行け。あの方は、おんしが来るのを待っちゅうぞ」
以蔵は、震える手で涙を拭った。瑞山の呪縛から逃れる恐怖と、新しい世界への眩しさ。その狭間で、人斬り以蔵は初めて、自らの意志で一歩を踏み出そうとしていた。




