第六十一話 情を殺す男
行灯の火が微かに揺れている。柳川左門という「朝廷の使者」としての重責を背負う瑞山は、独り筆を置いて、そっと溜息をついた。その横顔には、冷徹な政治家としての仮面の下に、一人の男としての深い孤独が滲んでいた。
(……龍馬、おんしはまた、わしの手の届かぬところへ行ってしまうがか)
ふと、幼い頃の記憶が蘇る。鏡川のほとりで、泣き虫だった龍馬を励まし、共に剣を振るった日々。あの頃、二人が見上げていた空は一つだった。瑞山にとって、龍馬はただの同志ではない。己の「影」であり、また決して手に入れることのできない「光」でもあった。
(羨ましいのだ、龍馬。正直に言えば、な)
瑞山は、行灯の炎を見つめながら、誰にも聞かれることのない、その本音を、静かに漏らした。
(わしは、いまだに、土佐のことしか、考えられておらぬ。二百六十年の泥、上士と郷士の隔たり、殿への忠義……。わしの視野は、いつも、あの狭い土佐という国の中に、留まったままなのだ。……じゃが、あいつは違う)
龍馬は、いつも、もっと遠くを見ていた。土佐という一藩の枠組みなど、まるで意にも介さず、日の本という国そのものの行く末を、その視線の先に据えている。その広さこそが、瑞山が、決して真似のできない、龍馬という男の器であった。
(じゃが、まずは、土佐を変えねばならぬ。わしの足元にある、この国を、まず、正さねばならぬのだ。それが、わしにできる、唯一のことじゃ)
その決意は、瑞山にとって、諦めではなく、むしろ、自分に許された唯一の道筋であった。龍馬のように、いきなり日の本全体を見据えることは、瑞山にはできない。だが、土佐という足元を固めることならば、瑞山にもできる。
(土佐を変えた、その先で……。おまんと、この国のことを、語り合いたいぜよ、龍馬)
その願いは、瑞山の胸の奥に、確かな灯火として、静かに宿り続けていた。今はまだ、遠く隔たった場所にいる龍馬と、いつか、対等な立場で、日の本という国の未来を、共に語り合える日が来ることを、瑞山は、誰にも言えぬまま、密かに夢見ていたのである。
「おんしが自由を選ぶなら、わしは……この血塗られた組織を束ね、殿を天下へ押し上げるしかないがじゃ」
瑞山は、懐に忍ばせた富子からの手紙に指先で触れた。
「瑞山さん、甘いお菓子が手に入りました。次にお会いする時には、一緒に食べましょうね」
そんな他愛もない言葉が、今の瑞山には鋭い刃となって胸を刺す。自分の手が汚れるほど、富子の清らかさが眩しすぎる。自分の言葉が以蔵を怪物に変えるほど、彼女の待つ土佐の家が、遠い天国のように感じられる。
「……先生」
暗がりに潜む以蔵の気配を感じ、瑞山はふっと微笑んだ。それは「柳川左門」の冷たい笑みではなく、かつて道場で門生たちに見せていた、兄貴分のような柔らかな笑みだった。
(以蔵。おんしを地獄へ連れてきたのは、わしだ。……だがな、もしおんしが龍馬の言う『海』とやらを見つけたなら、わしを置いて、そこへ行ってしまえばええ)
瑞山の胸のうちは、常に矛盾に満ちていた。以蔵を「手足」と呼びながら、その心が自分から離れていくことに、激しい嫉妬と、それ以上の「安堵」を覚えていた。あいつだけでも、人間に戻れるのであれば――。
しかし、瑞山はすぐにその甘い感傷を振り払った。将軍に拝謁し、公卿と渡り合い、主君・容堂のために血の道を拓く。それが、武市半平太という男が選んだ「誠」の形なのだ。
「……龍馬、おんしが見る水平線の先に、わしの居場所はないだろう。だが、おんしが拓く新しい世に、殿が、そして富が、笑って暮らせる場所があるなら……わしは、喜んでこの身を泥に沈めよう」
行灯の火がパチリと爆ぜた。瑞山は再び筆を執り、背筋を正した。その背中は、誰よりも情深く、誰よりもその情を殺そうと足掻いている、一人の男の悲鳴を上げているようだった。
「……以蔵……明日は、長い一日になるぞ」
その声は、冬の夜の静寂に溶け込んで消えた。情に足を取られながら、それでも高潔であろうと命を燃やす男の、あまりに不器用で人間臭い夜が、更けていく。




