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第六十話 手足ではない

 宿所に戻った以蔵を待っていたのは、凍りつくような沈黙だった。行灯の薄暗い光の中で、瑞山は「柳川左門」としての端正な装いのまま、一通の建白書を検めていた。以蔵が入室しても顔を上げず、ただ冷徹な声だけを投げかける。

「……勝邸の門前で、襲ってきた志士を斬り伏せたと聞いた」

以蔵は、勝邸での温かな余韻を打ち消されたような衝撃に、言葉を失った。

(先生……。どうして、それを)

以蔵は、まだ、瑞山が密かに配下の者を放ち、自分の一挙手一投足を見張らせていることに、気づいていなかった。ただ、瑞山の耳目が、江戸の闇の隅々まで、まるで見えない糸のように行き届いていることだけを、以蔵は改めて思い知らされていた。

「以蔵。……おんしは、わしの言うことが分からんかや」

瑞山の声が、低く、重く、部屋の空気を圧迫する。それはかつての師としての教えではなく、主人が犬を叱りつけるような、絶対的な支配の響きだった。

(あやつが、あの勝という男に、あれほどまでに心を許しておるとは……)

瑞山の胸の内には、報告を受けて以来、ずっと燻り続けていた、苦い焦りがあった。以蔵の腕前が確かであったという安堵よりも、以蔵が勝海舟という男に、あれほど穏やかな表情を見せていたという事実の方が、瑞山の心を、より強く苛んでいた。

「……いえ。でも先生」

以蔵は、震える膝を抑え、初めて瑞山の言葉を遮った。

「あの勝海舟という男……先生が言うような、悪いやつではないがぜよ。わしのような者にも分かるように、日本の、海の向こうの話をしてくれます。あの人は、本当にこの国を……」

「以蔵!」

瑞山の鋭い一喝が、部屋の空気を切り裂いた。瑞山はゆっくりと顔を上げた。その瞳には、高貴な志を自負する者の傲慢さと、自分の意に染まぬ者への冷酷な拒絶が同居していた。

「……おんしは、わしの言うことだけを聞いていればいいがぜよ」

瑞山はそれ以上、以蔵の目を見ようとはしなかった。

「おんしは、わしの手足だ。手足が、頭の考えに疑いを持ってどうする。勝は幕府の狐よ。その甘言に惑わされるとは、情けない……」

「……わしは、手足じゃありませんき」

小さな声だったが、以蔵の口から出たその言葉は、二人の間に取り返しのつかない線を引いた。

瑞山は、その言葉に、一瞬、大きく心を揺さぶられた。

(以蔵が……。あやつが、初めて、わしに逆らいよった)

その事実は、瑞山にとって、怒り以上に、驚きであった。これまで、瑞山の言葉を、一片の疑いもなく受け入れ続けてきた以蔵。その以蔵が、今、初めて、自分の意思を持ち、それを、はっきりと口にしたのである。

(龍馬の毒に、あてられたか……。あやつは、いつも、人の心を、不思議と自由にしてしまう)

その考えが、瑞山の胸を、苦く締め付けた。だが、その苦さの奥には、もう一つ、瑞山自身にも認めがたい、切実な想いがあった。

(以蔵……。わしとて、おんしと、昔のように、笑い合いたいのだ。道場で汗を流し、他愛もない話をして、ただ、師と弟子として、共に在りたいだけなのだ。……分かってはくれぬか)

その願いは、瑞山の胸の奥で、確かに、静かに燃えていた。ふと、瑞山の脳裏に、遠い記憶が蘇った。まだ土佐にいた頃、新町の自宅で、富子が作ったぐる煮を、以蔵が頬張っていた、あの日の光景であった。

「先生、富子様のぐる煮、こがいに旨いもん、初めて食べましたき!」

そう言って、口の周りを汁だらけにしながら、屈託なく笑っていた、あの少年の顔。

「……そうじゃろう」

あの時、瑞山は、まるで自分のことのように、誇らしげに頷いたものであった。

「富の飯は、たまらんきのう。おんしも、分かってきたようじゃな」

そう言いながら、瑞山自身も、富子の作ったぐる煮を、無言のまま、何度も箸を運んでいた。富子もまた、その様子を、目を細めて見つめていた。あの頃の以蔵には、まだ、血の匂いも、殺気も、何もなかった。ただ、腹を空かせた、一人の素直な若者が、そこにいるだけであった。そして瑞山もまた、盟主でも先生でもなく、ただ一人の、不器用な夫であり、師であった。

(あの頃に、戻れたら……。富の料理を、また三人で、笑いながら食べられたら)

その想いは、瑞山にとって、今や、決して叶うことのない、遠い夢のように思えた。血に濡れた京の道を歩ませ、次々と「不浄」を拭わせ続けてきたのは、他ならぬ自分自身であった。あの純朴な少年を、こんな風に変えてしまったのは、瑞山の言葉であり、瑞山の野心であった。

(この想いを、以蔵に伝える術を、わしは、持たぬ。……不器用な男よ、わしは)

瑞山は筆を握り直し、再び紙に向かった。

「……明日は品川の藩邸へ向かう。それまで、己の愚かさを省みておけ」

その言葉は、瑞山の本心とは、まるでかけ離れたものであった。だが、それ以外の言葉を、瑞山は、どうしても見つけることができなかったのである。

背を向けられた以蔵は、暗がりの隅で拳を握りしめた。瑞山の背中は、柳川左門という名誉に包まれ、かつてないほど高く、立派に見えた。だが、今の以蔵にとって、その背中はどんな壁よりも冷たく、分厚いものに感じられた。

(先生の言う通りに人を斬ってきた。先生が喜ぶと思って、血の海を歩いてきた。……でも、先生はわしを見てはくれん。わしが見つけた『光』を、認めちゃあくれん)

以蔵は、静かに部屋を出た。廊下を渡る風は、江戸の冬の冷たさを運んでくる。

その背後で、瑞山は、筆を止めたまま、しばらくの間、動くことができなかった。ただ、以蔵が去った後の、静まり返った部屋の中で、口に出せなかった想いだけが、虚しく、行灯の灯りの中に、揺れ続けていたのである。

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