第五十九話 人を守る腕
江戸の冬の夜は、骨まで凍るような静寂に包まれていた。瑞山の宿所を離れ、勝海舟の身辺警護に付くことになった以蔵は、龍馬に言われた通り、勝の数歩後ろを影のように歩いていた。
一方、瑞山は、以蔵を貸し出したその日から、落ち着かない日々を過ごしていた。
(以蔵の様子を、確かめずにはおれぬ)
その不安に耐えかね、瑞山は、信頼する門下生の一人に、密かに命じていた。
「……勝の屋敷の周辺を、それとなく見張っておけ。以蔵に、何か変わったことがないか、逐一、わしに報せるのだ」
表向きは、以蔵の身を案じてのことだと、瑞山は自分に言い聞かせていた。だが、その本心には、もう一つの、より切実な思いが潜んでいた。
(あやつが、勝という男に、どれほど深く心を許していくのか。それを、わしは、知らねばならぬ)
その監視の目的は、以蔵の安全のためというより、以蔵の「心」がどこへ向かっているのかを、瑞山自身が見届けるためであった。それは、かつて泥まみれの少年の顔を拭ってやった日から続く、瑞山なりの独占欲の、形を変えた表れであったのかもしれない。
勝の話は、今夜も面白かった。
「いいかい、岡田君。日本ってのは、これから大きな洗濯をしなきゃいけねえんだ。煤だらけの着物をいつまでも着てちゃあ、病気になっちまう」
むつかしい言葉を一切使わず、まるで近所の物知り親父が世間話でもするように、勝は「世界」を語ってくれる。その屈託のない人柄に、以蔵の凍りついた心は少しずつ、しかし確実に溶かされていた。
だが、その平穏は、一本の細い路地で断ち切られた。
「……先生、止まってつかあさい」
以蔵の声が低く響くと同時に、闇から三人の刺客が飛び出した。幕府の改革を阻まんとする、攘夷派の浪士たちだ。彼らは抜刀するなり、容赦なく勝へと襲いかかった。
「ちっ!」
勝が身構えるより先に、以蔵が動いた。かつて鏡新明智流の道場で「怪物」と恐れられた以蔵の剣が、月光を浴びて一閃した。
「……ふんっ!」
鋭い踏み込みとともに放たれた、得意の「突き」。一人、二人、そして三人。刺客たちが刀を振り下ろす暇さえ与えず、以蔵の刃は正確にその急所を貫いた。数秒前まで殺気を放っていた男たちは、声も上げられず泥土の上に崩れ落ち、雪を赤く染めていった。
以蔵は、返り血を拭うこともせず、静かに刀を鞘に収めた。その顔には、かつて京都で天誅を繰り返していた時のような、虚無的な高揚感が漂っていた。
「……お怪我はございませんか、先生」
勝海舟は、足元に転がる三つの骸と、目の前の青年に目をやった。その瞳には恐怖ではなく、深い悲しみのような光が宿っていた。
「……以蔵君」
勝は、いつものべらんめえ調ではない、静かな声で呼びかけた。
「人斬りはいかんよ。どんな理由があろうとな、人を殺めて、お前さんの心が死んでいっちゃあ、元も子もねえんだ」
以蔵は戸惑った。瑞山であれば「見事だ」と褒めるか、「汚したな」と冷徹に評するかのどちらかだっただろう。だが、勝の言葉は、以蔵という「人間」そのものを案じているように聞こえた。
「……でも先生、わしがやらんかったら、先生が斬られとったがですぞ」
以蔵は、子供が言い訳をするような、純粋で必死な声で返した。自分は先生を守った。正しいことをしたはずだ、と。勝海舟は、しばらく以蔵の目を見つめていたが、やがて困ったような、それでいて包み込むような笑みを浮かべた。
「……ははは! 違いねえ。お前さんの言う通りだ。俺の首が飛んでちゃあ、海軍もヘッタクレもねえからな」
勝は豪快に笑い飛ばし、以蔵の肩を強く叩いた。
「恩にきるよ、以蔵君。だがな、お前さんのその腕、次は人を守るためにだけ使いな。……さあ、帰って熱い茶でも飲もうじゃねえか。雪が強くなってきた」
勝の笑い声に誘われるように、以蔵の肩から力が抜けた。人を斬った後の、あの嫌な鉄の匂いが、勝の温かな笑い声に掻き消されていく。
(……この人は、わしを『人』として見てくれゆう)
瑞山の「柳川左門」としての誇り高い背中とは違う、勝海舟の少し丸まった、だが確かな温もりを持つ背中。以蔵は、自分が立っている場所が、少しずつ、決定的に変わり始めていることに気づいていた。
しかし、その一部始終は、闇に紛れて見張っていた瑞山配下の目によって、すでに、静かに記録されていた。以蔵が三人の刺客を仕留めた腕前も、勝との、あの温かなやり取りも――そのすべてが、いずれ瑞山の元へ、報告として届けられることになるのである。




