第五十八話 貸し出し
江戸の宿所に、場違いなほど明るい龍馬の声が響いたのは、瑞山が幕府への建白書を書き上げたばかりの夜のことだった。
「武市さん、折り入ってお願いがあるがじゃ」
瑞山は、柳川左門としての公務の疲れを滲ませながらも、かつての親友を迎え入れた。その傍らには、影のように以蔵が控えている。
「龍馬か。おんし、勝海舟という男に心酔しているそうだが、ほどほどにしておけよ。あやつは幕府の役人だ。我らとは歩む道が違う」
瑞山の冷ややかな忠告を、龍馬は笑い飛ばした。
「道が違うき、面白いがですよ。……それで、お願いというのは以蔵のことながです。勝先生の周りには、最近、物騒な浪士共がうろついちょってな。わし一人じゃ、どうしても手が足りんがです」
「……以蔵を貸せと言うのか」
瑞山の瞳が鋭く光った。以蔵は、瑞山にとっての「最強の刃」である。一介の幕府役人のために、その刃を差し出すことなど、本来ならあり得ない話であった。
(渡したくない。以蔵は、わしの……)
その本音が、瑞山の胸の奥で、一瞬、強く突き上げた。だが、その言葉を、瑞山は、口にすることができなかった。
(ここで渋れば、龍馬は、わしのことを、器の小さい男だと思うだろう。あやつの前でだけは、そんな風に見られとうはない)
瑞山にとって、龍馬は、かつて士学館で肩を並べた、数少ない対等な相手であった。その龍馬に、心の狭さを見透かされることは、瑞山にとって、剣術の立ち合いで負けるのと同じくらい、耐え難い屈辱であった。
「そうよ。勝先生が死んだら、日本の海は終わりぜよ。……武市さん、おんしも知っちゅうはずだ。今、日本が一番やらんといかんのは、内輪揉めじゃなく、異国に負けん船を作ることじゃ。勝先生はその鍵を握っちゅう。……以蔵の腕を、日本の未来のために使わせてくれんか」
龍馬の言葉は熱を帯びていた。瑞山はしばらく沈黙し、行灯の火を見つめていた。柳川左門として将軍に拝謁し、朝廷の威光を背負っている自分。その裏で、暗殺という「影の仕事」がかつてほど自由には動かせなくなっているという自負。そして何より、自分を信じて「人斬り」へと堕ちた以蔵への、言葉にできぬ微かな憐憫が、瑞山の心を動かした。
(……以蔵を、一度この血生臭い空気から遠ざけるべきかもしれぬ)
(それに――ここで、渋々貸し出したところを、龍馬に悟られてはならぬ。あくまで、わしの度量の広さゆえの決断だと、そう見せねばならぬ)
その見栄と、本物の情けが、瑞山の中で、複雑に絡み合っていた。
「……わかった、龍馬。おんしの顔に免じて、以蔵を貸そう。ただし、勝という男に毒されるなよ」
その言葉を、瑞山は、努めて鷹揚な調子で、言い放った。だが、その内心では、以蔵を手放す一抹の寂しさと、龍馬に器の大きさを示せたという、小さな安堵が、同時に渦巻いていたのである。
「おお、恩にきるぜよ、武市さん!」
龍馬は喜び、以蔵の肩を叩いた。瑞山は、以蔵の目を見た。
「……以蔵。龍馬を助けてやれ。おんしのその腕、勝を守るために使うのだ」
「……はい、先生。先生の仰る通りに」
以蔵は、いつものように無機質な声で答えた。だが、その胸の奥には、瑞山から離れることへの微かな不安と、龍馬が語る「広い海」への、名もなき期待が芽生えていた。
瑞山は、この貸し出しが、単なる「警護」で終わらないことを予感していなかった。己が鍛え上げた刃が、勝海舟という太陽のような男の熱に触れ、別の形へと鍛え直されていくこと。そして、そのことが自分たちの絆を、決定的に断ち切る引き金になることも。
こうして、以蔵は瑞山の宿所を離れ、龍馬と共に、赤坂の勝邸へと向かうことになったのである。
二人が去った後の宿所は、これまでにないほど、静かであった。瑞山は、一人残された部屋の中で、ふと、その静けさに、言いようのない心細さを覚えた。
(……どうしたらよいがじゃ)
これまで、以蔵は、常に瑞山の傍らにいた。夜道を歩けば、その気配だけで、安心して眠りにつくことができた。だが今、その以蔵が、しばらくの間、いなくなってしまう。
(以蔵がおらんようになってしもうたが……。わしは、これから、誰が守ってくれるのだ)
柳川左門として、朝廷や幕府の重鎮と渡り合う日々。その裏で、瑞山を快く思わぬ者たちも、少なからず存在するはずであった。これまでは、以蔵という「刃」が、常にその身辺を固めていたからこそ、瑞山は、余計な用心をせずに済んでいたのである。
(用心せんならんな……。以蔵がおらぬ間は、わし自身が、もっと気を張らねばならぬ)
その現実的な不安が、瑞山の胸に、じわりと広がっていった。龍馬の前では鷹揚に振る舞ってみせたものの、いざ一人になってみると、その決断の重みが、改めて、瑞山の肩にのしかかってきたのである。




