第五十七話 初めての嘘
宿所に戻った以蔵を、瑞山は行灯の火の下で待っていた。
「……以蔵。勝の首はどうした。片付いたか。おんしの太刀なら、造作もないことだったろう」
瑞山の声には、かつての慈しみではなく、自分の手足を確認するかのような冷徹さが混じっていた。
「……隙がございませんでした。坂本さんが、ずっと付いておりましたき。手出しができませんでした。申し訳ございません」
以蔵は、再び嘘をついた。瑞山は疑う風もなく、筆を止めて天井を見上げた。
「……そうか。龍馬か。あいつも、どこまで迷えば気が済むのか。せっかくわしが、山内家を天下へ押し上げる道を拓いておるというのに……。まぁよい、次の機を待て。おんしも下がって休め」
瑞山は吐き捨て、再び建白書の執筆に戻った。だが、その筆は、しばらくの間、紙の上を滑ることなく、止まったままであった。
(龍馬か……。厄介な奴じゃ)
瑞山は、心の中で、静かにそう呟いた。だが、その言葉には、単なる苛立ちだけではない、もう一つの感情が混じっていた。
(あやつは、不思議と、人の心を揺さぶりよる。理屈でも、大義でもない、あの飄々とした物言い一つで、人の心を、いとも容易く動かしてしまう。……わしには、決して真似のできぬ芸当だ)
かつて、士学館で共に学んだ日々。あの頃から、龍馬には、瑞山が持ち得ない、不思議な引力があった。理路整然とした論理を積み上げる瑞山とは違い、龍馬は、ただその場にいるだけで、周囲の空気を、いつの間にか変えてしまう。その力を、瑞山は、羨望と同時に、どこか薄気味悪いものとして、感じ続けていた。
(以蔵まで、あやつに、飲み込まれては困る)
その思いが、瑞山の胸の奥で、静かに、しかし確かに、膨らんでいった。以蔵は、瑞山にとって、単なる刃以上の存在であった。あの泥まみれの少年の顔を拭ってやった日から、以蔵は、瑞山が「与える者」でいられる、唯一の相手であり続けていた。その以蔵が、龍馬という、自分とはまるで違う種類の男に、心を惹かれていく。その予感が、瑞山にとって、言いようのない焦りを掻き立てていたのである。
(あやつには、渡さぬ。以蔵は、わしの……)
そこまで思いかけて、瑞山は、自分の思考の危うさに、ふと、気づいた。以蔵を「わしの」何だと言うつもりだったのか。刃か、弟子か、それとも――。その先を、瑞山は、自分自身にも、はっきりと言葉にすることができなかった。
その背中を見つめながら、以蔵は確信していた。「柳川左門」として江戸城を闊歩するこの男は、もう自分の知っている「半平太先生」ではない。そして自分もまた、ただの「以蔵」には戻れないのだと。
(先生は、わしが本当に隙を見つけられなかったと、信じておいでじゃ。……わしが、初めて先生に嘘をついたということにも、気づいておられん)
その事実は、以蔵にとって奇妙な感覚をもたらした。恐れでも、罪悪感でもない。むしろそれは、初めて自分の意志で何かを選び取ったという、小さな、しかし確かな手応えであった。
(先生は、いつも、わしのことを見抜いておいでやった。稽古の時も、天誅の時も、わしの心の裏まで、すべて分かっておいでのようやった。……じゃが、今夜だけは、違う。今夜だけは、わしの方が、先生を欺いておる)
その小さな逆転が、以蔵の胸に、これまでにない、静かな高揚をもたらしていた。それは、勝海舟が語った「舵を握る」という言葉の意味を、以蔵なりに、初めて実感した瞬間でもあったのかもしれない。
部屋を出る間際、以蔵は、ふと、筆を走らせる瑞山の横顔を、もう一度だけ、じっと見つめた。かつて、あれほど強く、あれほど眩しく見えた背中が、今夜は、どこか小さく、儚いもののように映った。
(先生。……先生は、もう、わしの噓に気づける余裕さえ、失うておいでなのですね)
その気づきは、以蔵にとって、決して勝ち誇るようなものではなかった。むしろ、それは、深い寂しさを伴う発見であった。かつて自分を人として見出してくれた師が、今や、自分自身の描いた大義に呑み込まれ、目の前の一人の人間すら、正しく見ることができなくなっている。その変わり果てた姿を、以蔵は、誰よりも近くで、静かに見つめ続けていたのである。
(わしは、もう、先生の言うがままには動かん。……先生には、まだ、それを伝える勇気はないがですが)
その決意を、以蔵は、胸の奥深くに、そっとしまい込んだ。
勝海舟から教わった「水平線」の光景が、以蔵の心の中で、瑞山の掲げる暗い大義を静かに塗りつぶしていった。




