第五十六話 水平線
柳川左門という「朝廷の使者」としての虚飾を纏った瑞山は、築地や品川の藩邸を行き来し、幕府との神経を削る交渉に没頭していた。その万能感は、かつての慎重な智将から冷静さを奪い、独善的な「正義」へと彼を変質させつつあった。
「……以蔵。勝海舟という男、やはり生かしておいては土佐のため、延いては日本のためにならん」
かつて剣術修行に励んだ士学館近くの宿所で、瑞山は静かに告げた。その視線は、目の前の以蔵を通り越し、どこか空を泳いでいる。将軍に拝謁し、国を動かしているという傲慢さが、瑞山の言葉を「天の命」であるかのように錯覚させていた。
「勝という男は幕臣でありながら異国と通じ、日本の根幹を揺るがそうとしておる。わしが柳川左門として公儀を動かす今、こうした『毒』は早々に摘み取らねばならぬ。おんし、分かっておるな。これは、天子様のため、そして殿のためでもあるのだ」
「……承知いたしました。先生の仰せのままに」
以蔵は短く答え、夜の赤坂へと消えた。だが、その足取りはかつての本間精一郎暗殺の時のように軽くはなかった。瑞山の言葉が、今の以蔵には重く冷たい「鎖」のように感じられていた。
赤坂、勝邸の生垣の影。以蔵が息を殺し、鯉口を僅かに切ったその瞬間であった。
「……以蔵。おんし、そこに居るのは分かっちゅうぜよ。隠れておらんと、出てきたらどうだ。夜風は体に毒じゃき」
闇の向こうから、聞き慣れた、しかし今は聞きたくなかった鷹揚な声が響いた。坂本龍馬である。
「……坂本、さん」
以蔵が硬直する。龍馬は、勝海舟の背後を守るように立ちながら、困ったような、それでいてどこか悲しげな眼差しを以蔵に向けていた。
「なんで龍馬が……。なんで、ここに……」
「なんで、も何もない。わしは今、この勝先生に日本の夜明けを見せてもらいゆうがじゃ。以蔵、おんし……勝先生を斬りにきたがやろ。武市さんに言われて、この国の毒を消しにきたがやろ」
「…………。先生は、この男は生かしておいてはいかんと言うた」
「まぁ待ちや。抜く前に、少しでええき、この人の話を聞いてみんか。武市さんの書物には書いてない、本当の世界の話をよ」
龍馬に半ば強引に促され、以蔵は操られるようにして勝の居間へと通された。そこには、瑞山の寓居のような張り詰めた緊張感も、誰かを断罪するような殺気もなかった。勝は胡坐をかき、面白そうに以蔵を見つめた。
「あんたが岡田以蔵君か。武市君も物騒な刺客を寄越したもんだ。だが、いいかい岡田君。武市君が見てるのは『土佐の山』の上にある空だけだ。俺が見てるのは、その先の、水平線の向こう側よ」
勝は地図を広げ、大きな指で世界をなぞった。
「攘夷だなんだと内側で斬り合っている間に、外の世界はもっと速い船を作っている。岡田君、お前さん、その腕を人を斬るためじゃなく、舵を握るために使ってみないか。日本っていう国を、外から守るためにさ。人を殺すより、よっぽど腹が膨れるぞ」
「……先生。わし、頭が悪いき、先生の言うことは半分もわかりません。……でも、先生と話しゆうと、わしが『人斬り』じゃない、ただの人間になれるような気がするがです。わしは、刀じゃなかったがでしょうか」
その言葉を口にしながら、以蔵の脳裏には、ふと、遠い記憶が蘇っていた。まだ幼かったあの日、泥まみれの自分の顔を、丁寧に拭ってくれた、武市先生の手。「以蔵か。……悔しいか」と、初めて名を尋ねてくれた、あの優しい声。
(武市さんも……。初めは、わしを、人として見てくれちょった。あの頃は、確かに、そうやった)
だが、いつからだろうか。京に来てから、天誅が続くようになってから、瑞山の目に映る自分は、いつしか、剣の腕としてしか、評価されなくなっていた。「以蔵、頼む」ではなく、「不浄だ」「目障りだ」という独り言だけが、以蔵への「命令」として、静かに積み重なっていった。
(あの頃の、わしを人として見てくれちょった武市さんは、もう、おらんがか。……それとも、わしが、勝手にそう感じちゅうだけながか)
その問いに、以蔵自身、明確な答えを出すことができなかった。ただ、勝海舟の言葉が、その埋もれかけていた記憶を、静かに掘り起こしていることだけは、確かであった。
以蔵の吐露に、勝は豪快に笑った。
「がはは、それでいいんだよ! 人間、誰かの道具になるために生まれてきたわけじゃねえ。武市君に伝えな。岡田以蔵は、海を見ることにしたってね。龍馬、こいつに少し酒を飲ませてやれ」
以蔵は、胸の奥につかえていた何かが、すとんと落ちるのを感じた。江戸の冷たい夜風の中で、柳川左門として誇り高く振る舞う瑞山の姿が、どこか遠く、色褪せた絵の中の出来事のように思えてきた。




